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藤村新一と和田喜八郎 [ 難波紘二 ] 2001/02/13 17:26 No.1049
Re: 藤村新一と和田喜八郎 [ カメさん ] 2001/02/13 19:56 No.1052
Re: 鏡のなかの陥穽 [ トラ ] 2001/02/13 21:01 No.1053
神代文字の「考案者」鳥谷幡山 [ 難波紘二 ] 2001/02/13 21:26 No.1055
Reでもでも [ トラ ] 2001/02/14 12:52 No.1062
Re: 和田喜八郎文書がらみの著名人 [ 早傘 ] 2001/02/14 04:12 No.1058
「ミニ原人」って御存じですか? [ カメさん ] 2001/02/14 07:03 No.1059
Re: 「ミニ原人」って御存じですか? [ 難波紘二 ] 2001/02/14 11:51 No.1060
Re: 「ミニ原人」って御存じですか? [ トラ ] 2001/02/14 12:54 No.1063
Re: トラさんは「東北人」?! [ 風 ] 2001/02/14 17:31 No.1064
Re: トラさんは「東北人」?! [ トラ ] 2001/02/14 18:40 No.1065
Re: なら苛められても仕方ない!?んだけれど。 [ 風 ] 2001/02/14 22:54 No.1067
Re: なら苛められても仕方ない!?んだけれど。 [ トラ ] 2001/02/15 12:04 No.1073
Re: 藤村新一と和田喜八郎 [ bambi ] 2001/02/15 14:15 No.1076
Re: 藤村新一と和田喜八郎 [ 難波紘二 ] 2001/02/15 14:57 No.1078
Re: 藤村新一氏の生年 [ bambi ] 2001/02/15 15:59 No.1082
Re: 藤村新一の生年 [ トラ ] 2001/02/15 16:36 No.1083
Re: 藤村新一の生年 [ 難波紘二 ] 2001/02/15 17:21 No.1085
藤村新一のプロファイル [ 難波紘二 ] 2001/02/15 18:00 No.1086
Re: 藤村新一のプロファイル(続き) [ 難波紘二 ] 2001/02/15 20:03 No.1088

[1049] 藤村新一と和田喜八郎
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月13日 17時26分
藤村新一の行動と「東日流外三郡誌」の和田喜八郎の行動の間には、かなり類似性がありますね。
和田は青森県現五所川原市飯詰の炭焼きの子供で、尋常小学校までしか行っていない。
それが長じて古物商(たぶん廃品回収業に毛の生えた程度)となり、偽古文書を売りつけるようになった。
徹底して「偽歴史書」を執筆したので、地元の郷土史家がだまされて「村史資料編」に「東日流外三郡誌」を収録したのが事件が広がるきっかけ。
藤村の特技は鎌田俊昭がだまされて「石器文化談話会」を結成、岡村道雄が「座散乱木報告書」で世に出した。和田は、古田武彦や川崎真治など「偽史愛好家」に誘導されるままに、いくらでも「古文書」を書いていた。藤村の、鎌田や岡村の期待に応えて、つぎつぎと古い遺跡を作って行った。

この捏造のパタンは、実は「竹内巨麿事件」にさかのぼる。
竹内は「頭の変な宗教家」で、三輪義ひろ、酒井勝軍、鳥谷幡山、山根菊子の期待に応えて、つぎつぎと「古代ユダヤ人は日本民族の先祖で、イエスの墓は青森にある」といった「古文書」を執筆していった。

恐山のイタコは依頼者の願望をくんで、それに合う「お告げ」を伝えるが、このような「シンパシー」能力は、竹内巨麿、和田喜八郎、藤村新一に共通して見られるものである。
歴史的に大がかりなペテンに関与した人物には、山形、青森、宮城など東北の関係者が異常に多く、これはこの地方の一種の「精神的風土」として警戒する必要があると思う。

 なお「東日流外三郡誌」を世に出した藤本光幸は、現在も青森県藤崎町文化財審議委員として健在で、和田文書が偽物だとは認めていない。従って、藤村も鎌田も死ぬまで「二カ所以外の捏造」は徹底的に否認するに違いない。

トンデモ事件関係年表
慶応3(1867)年:三輪義ひろ、誕生(愛知県尾張一宮)

明治7(1874 )年:幸松葉枝尺、「上記」を政府に寄贈。酒井勝軍、誕生(山形県上山温泉)。
明治8(1875 )年:竹内巨麿、誕生(富山県婦負郡久郷)
明治9(1876)年:鳥谷幡山、誕生(青森県七戸町)
明治11(1878)年:幸松葉枝尺、死去。

明治26(1893)年:山根菊子、誕生(山口県萩市)
明治37(1904)年:三浦一郎、誕生(青森県南津軽郡大鰐温泉)
明治39(1906)年:三輪義ひろ、「富士史」刊行。
明治43(1910)年:竹内巨麿、「天津教」を開く(茨城県多賀郡磯原)
大正元(1912 )年:竹内巨麿、長峯波山に自伝を後述(「明治奇人今義経鞍馬修業実歴譚」)

大正10(1921 )年:三輪義ひろ、「新皇紀」を刊行、「富士文書」を広く紹介。
大正11(1922)年:第一次大本教弾圧事件。

昭和2(1927)年:酒井勝軍、パレスチナ視察に参加、シオニズムを知る。
      和田喜八郎、誕生(青森県北津軽郡飯詰村:現五所川原市飯詰、炭焼きの長男)
昭和3(1928 )年:山根菊子、青森県下に2ヶ月間滞在(?)
昭和4(1929 )年:酒井勝軍、磯原に天津教を訪問、「モーゼの裏十戒」を刊行。
      鳥谷幡山、磯原に天津教を訪問、「竹内文書」を見る。
昭和5(1930 )年:酒井勝軍、「神代秘史百話」を刊行、「竹内文書」を紹介。

昭和8(1933)年:三輪義ひろ、死去。
昭和9(1934)年:酒井勝軍と鳥谷幡山、広島県庄原のピラミッド調査
      酒井勝軍「太古日本のピラミッド」刊
      10月、鳥谷幡山、青森県戸来村を訪問「大石神山ピラミッド」を発見
昭和10(1935 )年:8月、竹内巨麿、鳥谷幡山に伴われ青森県戸来村を訪問、「キリストの墓」を発見
      8月、「東京医事新報」社、狩野享吉に「天津教古文書」の鑑定を依頼。
      12月、綾部の大本教本部に大弾圧(第二次大本教事件)。
昭和11(1936)年:狩野享吉、岩波「思想」に「天津教古文書の批判」を発表。
      「天津教」に不敬罪で有罪判決。
昭和12(1937 )年:山根菊子「光は東方より」刊行(即発禁)
昭和13(1938) 年:三浦一郎、大本教と接触。

昭和15(1940)年:酒井勝軍、死去。
昭和16(1941)年:三浦一郎、「九鬼文書の研究」を刊行。


昭和24(1949)年:和田喜八郎、飯詰村に「役の小角の墓」を発見した。
昭和25(1950):藤村新一、誕生(宮城県黒川郡)。

昭和40(1965)年:竹内巨麿、死去。山根菊子、死去。
       藤村新一、仙台育英高校を卒業。
昭和41(1966)年:鳥谷幡山、死去。
昭和42(1967)年:和田喜八郎の「古文書」に基づき「高楯城史跡保存会」が発足。

昭和44(1969)年:相沢忠洋「岩宿の発見」(講談社)刊行、ベストセラーに。
昭和47(1972)年:八切止夫「日本原住民論」(朝日新聞社)を刊行。
        藤村新一、「旧石器発掘」に志す。
昭和50(1975)年:青森県市浦村、「村史資料編上」に「東日流外三郡誌」を収録刊行。三浦一郎、死去。
        4月、「石器文化談話会」発足。

昭和55(1980)年:9月、和田喜八郎の「古文書」に基づき「石塔山荒覇吐神社」建立。自民党安倍晋太郎、
        画家岡本太郎が式典に参列。
昭和56(1981)年:9月、「座散乱木第三次」発掘。

昭和60(1985)年:浅原彰晃、雑誌「ムー」11月号に
        「酒井勝軍が見つけた謎の金属ヒヒイロカネを岩手県釜石市五葉山で発見」と論文を発表。

平成6(1994)年:安本美典(編)「東日流外三郡誌「偽書」の証明」刊行。
平成7(1995)年:オウム「サリン事件」発生。

平成11(1999)年:和田喜八郎、死去。
        11月、藤村新一、東北計器工業を退職。東北旧石器文化研究所の職員となる。
平成12(2000)年:11月、藤村新一の旧石器遺跡捏造事件発覚。

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[1052] Re: 藤村新一と和田喜八郎
投稿者名: カメさん
投稿日時: 2001年2月13日 19時56分
>藤村新一の行動と「東日流外三郡誌」の和田喜八郎の行動の間には、かなり類似性がありますね。
>恐山のイタコは依頼者の願望をくんで、それに合う「お告げ」を伝えるが、このような「シンパシー」能力は、竹内巨麿、和田喜八郎、藤村新一に共通して見られるものである。
>なお「東日流外三郡誌」を世に出した藤本光幸は、現在も青森県藤崎町文化財審議委員として健在で、和田文書が偽物だとは認めていない。従って、藤村も鎌田も死ぬまで「二カ所以外の捏造」は徹底的に否認するに違いない。

 藤村氏の行動はいわば「サービス」精神の発露だったということになるんでしょうか?いわば「善意の悪行」であると.ただ、長く発覚しないばかりでなく、あまりに多くの「遺跡」を手掛けるようになり、しかも旧石器の国内最古記録を毎年のように更新しなくてはならなかった訳ですから、内心は深刻な悩みがあったのかも知れませんね.実際に鬱病になっていたそうですし.彼が発覚後に語っていた「プレッシャー」というのは、その辺りを指すのでしょうか?単なる趣味の領域を超えて、経済的にも発掘活動に依存していたとすれば、なおさらだったことでしょう.藤村氏の関わった遺跡(180ケ所以上)では、全部で何個くらいの石器が出土しているのでしょうか?全てが捏造だったとすると、大変な量になることは間違いないでしょう.まったく、よくやったもんだと思いますね.
 
 個人的には、藤村氏が何年か後に真相を告白した手記などを公表してくれることを期待しているのですが、やはり無理でしょうかね.

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[1053] Re: 鏡のなかの陥穽
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年2月13日 21時01分
偽史についてはわたしも若干の興味があり、それが以前の青森遺跡探訪時代の「東日流外三郡誌」事件を下敷きにした書き込みにつながりました。しかし、その後は偽史についての発言は(ここでは)控えていたつもりです。
ところで偽史を話題にする発言者のなかには「捏造事件」を特定の偽史事件と結びつけ、「捏造事件」の背景に東北地方の文化的風土が関係しているかのように考える人もいるようです。

東北地方に関連する偽史事件がいくつかあることは事実ですが、その詳細を見てみると中心になったヒトに東北地方以外の出身者が少なからずいることがわかります。このことは何を意味しているのでしょうか。

わたしは東北での偽史事件の多くは、東北人ではなく東北に対する「幻想」をもつ非東北人が引き起こしていると考えています。
以前、「歴史民俗学」に掲載された原田実氏の論文を紹介しましたが、それは原田氏が、一般に東北地方に対する「土俗的イメージ」がありこれが東北と偽史を結びつける役割を果たしていると、指摘しているからです。

原田氏は『正論』2001年2月号で、「東日流外三郡誌事件」と「神の手」事件の共通点として背景に東北の特異な歴史的背景を指摘しています。しかし、自らの出身地の歴史に「幻想」をもとうとするのはヒトの性とも言えるものです。先に紹介した「歴史民俗学」には遠藤周作氏などの歴史小説の種本に使われ、一部の大学教授なども評価した偽書「武功夜話」についても取上げられています。この「武功夜話」を含む前野家文書は名古屋を中心とする偽書です。また、早傘氏が指摘した「上書」「九鬼文書」は九州を舞台にしています。決して偽書・偽史は東北・東日本が専売特許というわけではありません。

そもそも偽史事件自体は、日本だけでなく世界中で普遍的に起こっている事件です。それはヒトのこころのなかに原因があるからだと思われます。それを特定の地域に結びつけ、特殊な文化風土の存在証明にしようとするのは、自らのイメージのなかにある「東北に存在する特殊な文化風土」や「土俗的なイメージ」を見ているに過ぎないのです。
以前、偽物はこころの中でそのようなものが欲しいと思った瞬間に生命をもち始めると、いいました。偽物・捏造を解釈しようとする者が、やはり同じようにみずからのこころのうちにあるものを見てしまうというのは皮肉な結果と言わざるを得ません。

偽史事件研究が「捏造事件」に資するところがあるとすれば、資料の取り扱い方や事件のパターンだろうと思います。これについては「偽史」でなく「病理」をキーワードに分析した「日本の考古学リソースのデジタル化」にある「学問の病理現象」は秀逸でした。
くりかえしになりますが、偽史事件を仲介に捏造事件から特定の地域の文化的体質を導き出そうとするのは無意味であり、そのような構図で事件と東北地方をみることは怨念の再生産につながるだけだと思われます。

わたしも偽書に関する発言はこれを最後に封印することにしましょう。

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[1055] 神代文字の「考案者」鳥谷幡山
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月13日 21時26分
トラさんには、私が東北人の「心性」を軽蔑しているとしか思ってもらえないようですね。
いいですか、何ごとも良いことばかりではない。岡本太郎や、宗像志功、石川啄木や太宰治のような優れた感性が東北の産物であるとすれば、「トンデモ世界」の住人もやはり東北の産物だということをきちんと認識して欲しい、それだけのことです。
その点広島県なんか、大した人物もいないが、トンデモ世界に名を残すような人物もいない。みんな小者なのです。
政治家だってせいぜい宮沢喜一で、小沢一郎みたいなスケールのでかい人は、いないですよ。

 旅人2号さんの「盛岡の北西80里あたりに 「田山村」というのがあって、そこは誰もかな文字が読めねえで、これを使っているそうだ」という情報は貴重でした。
 「めくら心経」を幕末に使っていた村を探り出しました。国土地理院のインターネット地図検索で「田山」というキーワードで探すと、ありました。青森県南郷村で、全国でここしか「田山」という地名はない。おまけに隣の地名が「不習(ならわず)」。ここは深い谷を分け入ってさらに坂を登った台地で、ほんとに「隠し部落」のようなところ。
 かつての「田山村」は盛岡の北80キロの地点にあります。「盛岡の北西80里」というのは80里=江戸の14里=56キロと考えれば、北西が北の間違いで、大体の方向は合います。それに「田山と不習」という地名がなによりも説得的です。絵文字の「めくら心経」や「めくら暦」が使用されていたのは、ここに違いありません。
南郷村の西北西30キロのところに「新郷村」があります。ここがかつての「戸来村(へらいむら)」です。
ここには「戸来(へらい)」という地名があります。そして「大黒森」という海抜556メートルの孤立したピラミッド型の山があります。
「戸来」という地名の音が「ヘブライ」に通じるとして、昭和の初めの「トンデモ屋」たちが、夢想を繰り広げた場所で、ピラミッドもイエスの墓もあるとされた。
で、「神代文字」を考案したやつは、「めくら心経」や「めくら暦」の存在を知っていた。だから土地勘のある奴で、神代文書の発掘者である、それが旅人2号さんの推理でした。
この条件にピッタリ当てはまる人物がいました。

明治9(1986)年、青森県七戸の瑞龍寺という古い寺の次男坊に生まれた鳥谷幡山(とやばんざん)という絵描き。この寺は今も、青森県上北郡七戸町字後川原61にある。
明治28年以来十和田湖の景勝に魅せられ、何度も十和田湖周辺に足を運んでいる。昭和4年には天津教本部で「古文書」を見ている。昭和9年には、酒井勝軍に従って広島県庄原の「芦岳山ピラミッド」調査に行っている。同年10月「戸来村」村長佐々木伝次郎の招きで戸来村を訪れ、「大石神山ピラミッド」を発見。
その翌年には、天津教教祖竹内巨麿をこの村に連れてきて、「キリストの墓」を発見させている。

「神代文字」は昭和5年頃から「竹内文書」に出現をはじめ、後の「九鬼文書」に受け継がれている。
七戸の代々続く寺に生まれた鳥谷は周囲の村の風習や伝承を知っていたに相違なく、また絵描きとして「絵文字」には異常な興味をもっただろう。青森には「戸(へ)」のつく地名が多いこと、それについても由来についての疑問をもっていただろう。
それに昭和4年以後の彼の行動は、「戸来村」を日本の最古の中心とする物語を普及するために捧げられたといっても過言ではない。
鳥谷幡山こそ、東北がらみ「トンデモ本世界」の陰の仕掛け人というべきだろう。

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[1062] Reでもでも
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年2月14日 12時52分
> トラさんには、私が東北人の「心性」を軽蔑しているとしか思ってもらえないようですね。
> いいですか、何ごとも良いことばかりではない。岡本太郎や、宗像志功、石川啄木や太宰治のような優れた感性が東北の産物であるとすれば、「トンデモ世界」の住人もやはり東北の産物だということをきちんと認識して欲しい、それだけのことです。
> その点広島県なんか、大した人物もいないが、トンデモ世界に名を残すような人物もいない。みんな小者なのです。
> 政治家だってせいぜい宮沢喜一で、小沢一郎みたいなスケールのでかい人は、いないですよ。

先生でもね。あの地方はペテン師を多く出す土地柄だってあからさまに言うことはやっぱりその地域に対して偏見があると取られてもしょうがないでしょう。越後出身の有名人として大江山の酒呑童子まで挙げた鈴木牧之じゃないんだから、大きな事件を引き起こせばいいってもんじゃない。

何度でも言いますが、この「捏造事件」は詐欺事件で、詐欺師・ペテン師の類はどこにでもいます。ネズミ講の天下一家の会は九州でしょう。どこでも詐欺事件が起こるように、偽書なんてものも出てき得る。偽書が互いに影響を与えあっているのは確かですが、適当に良いとこ取りで整合性はまったく無い。詐欺師の創作能力の問題でしょう。

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[1058] Re: 和田喜八郎文書がらみの著名人
投稿者名: 早傘
投稿日時: 2001年2月14日 04時12分
古田武彦も原田実も広島出身ですね。広島出身者はミイラとミイラ取りの狭間でさまよう傾向があるのかな :-)

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[1059] 「ミニ原人」って御存じですか?
投稿者名: カメさん
投稿日時: 2001年2月14日 07時03分
 トンデモ事件の話題が出たところでネタを一つ.1970年代末から80年代初頭にかけて、通称「ミニ原人」と呼ばれるトンデモ発表が日本の古生物学界を賑わしたことがあります.

 このトンデモ研究の主人公・岡村長之助さん(数年前に他界されたそうです)は80年当時には60歳を超えており、本職は岐阜県の精神病院の院長であったと聞いております.岡村さんは趣味で化石の採集を始められ、70年頃には学会員の推薦により古生物学会に入会されていました.

 岡村さんは岩手県の北上産地に分布している長岩層という古生代石炭紀(約3億年前)の石灰岩からサンゴや三葉虫などの化石を採集していたのですが、突然、この地層から人類などの高等脊椎動物の化石を発見したという学会発表をされるようになったのです.石灰岩をスライスして薄片にして鏡下で観察すると、サンゴやフズリナなどの様々な生物や有機物片の断面が見えますが、それが岡村さんの眼には身の丈数ミリの人間などの形に映ってしまったらしい(しかも服を着ている!).大勢の人間の他にも、イヌやらネコやらヘビなど様々な動物も発見できたということでした.「岡村理論」をかいつまんで解説すると、古生代から数億年をかけて人間などの高等脊椎動物が進化したというダーウィン流の進化論は間違っており、実は非常にミニチュアサイズの様々な高等生物が3億年前には既に登場していたという内容になります.

 この発表を本気にした人がいなかったのは当然のことですが、当時の古生物学会は演題のみで講演が申し込めるようになっており、事前に発表を却下できるような制度ではなかったと聞いております.岡村さんのトンデモ発表は数回ほど行われたのですが、私も81年に東北大学で開催された古生物学会で岡村さんの講演を全くの興味本位で拝聴したことがあります.私のような野次馬が集まって、会場の後ろには立ち見も出るほどの盛況ぶりでした.岡村さんのかん高い声は後ろにいた私にはよく聞き取れなかったのですが、発表が終わったあと、座長が『今度は御自分の化石を見つけないように気を付けて下さい』と言い、岡村さんが『はい、気を付けて頑張ります』と答え、場内は大爆笑でした.このトンデモ発表は学会の品位を傷つけるというので問題になり、翌82年から講演要旨の提出を義務づけることになり、岡村さんの発表も聞かれなくなりました.

 岡村さんは御自分の考えを原稿にまとめて学会紀要に投稿されていたようですが、当然のことながら、掲載は拒否されました.そして、和文と英文併記の本を何冊か自費出版されたのです.岡村さんのトンデモ本は全国の主要大学の地質学教室のみならず、海外の有名な自然史系博物館や大学にも送りつけられたようです.先輩に教えられて、このトンデモ本が母校の図書館の片隅にあるのを見たことがありますし、欧米に滞在したおり、『オカムラという奇妙な研究者を知っているか?』と2度ほど質問され、ちょっぴり肩身の狭い思いをした体験もあります.とても読む気が起きるような著書ではありませんでしたが、例えば「ミニ原人」については、「ホモ・ミニサピエンス」と動物命名規約に則って「新種」として記載されていたのが印象的でした.

 岡村さんがどのような意図でこんな研究をされていたのか定かではありません.本気だったのか、それともジョークのつもりだったのか?講演を聞いた限りでは、御本人は大真面目だったように見受けられましたが.仲間うちでは、患者を診察しているうちに本人もおかしくなったんじゃないの?という「仮説」が立てられていました.

 海外に目を向けると、J.グールドのエッセイをまとめた『パンダの親指』(ハヤカワ文庫)には、カーク・パトリックという、ロンドンの大英自然史博物館の学芸員で、半生をトンデモ研究に費やした人物の話題が取り上げられています.パトリックは海綿の研究でキチンとした仕事をした動物学者でしたが、突然、地球の地殻は貨幣石と呼ばれる単細胞生物の遺骸から構成されているという仮説を思いつき、学会誌に掲載を拒否された挙げ句、やはり自費出版で自分の研究結果をまとめた大著を残したというお話しでした.

 騙される人間がいなければトンデモない話し、笑い話で済みますが、最初から騙そうと思って意図された企みは怖いものがありますね.

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[1060] Re: 「ミニ原人」って御存じですか?
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月14日 11時51分
精神科の医者には頭の変なのが多いのですよ。
院長級はもっとそうでしょう。
「楡家の人々」で院長さん(斉藤茂吉)は聴診器を患者の頭にあてて診察するでしょう。

病理学会でも癌学会でも昔はトンデモ発表がありました。
ガンワクチンをつくったという「蓮見ワクチン」、赤血球から他の細胞ができるという発表もありましたよ。

まあ、そういうフェースを経て、研究者に一種の免疫ができてくる。
考古学はこれまでそういう目にあっていないのでしょう。

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[1063] Re: 「ミニ原人」って御存じですか?
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年2月14日 12時54分
考古学では「古代文字」なんかが「トンデモ」で出てくることがありますね。出土した遺物に残された文様などの「解読」を試みるわけですが、易学を持ち出したり甲骨文字とかトルコ文字なんかとの直接的な比較をやってみたり方法論がめちゃくちゃのものが多く、読む気にもならない。結局「わたしはこう思う」というだけなんですね。もう「ロマン」だらけ。

以前、あるまちで洞窟に残された「古代文字」のシンポジウムを開催する際に、担当者はかなり真剣に悩んでいましたね。「古代文字」の解釈に一家言のあるアマチュアに会がのっとられたらどうしようって。
シンポが始まる前にそんなアマチュアを集めて発表の時間を取ったらって、冗談で言ったんですが。でもやったらきっとそれぞれ勝手に発表して本人以外誰も聞いてない「カラオケ大会」みたくなるんでしょうね。

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[1064] Re: トラさんは「東北人」?!
投稿者名: 風
投稿日時: 2001年2月14日 17時31分
> わたしは東北での偽史事件の多くは、東北人ではなく東北に対する
> 「幻想」をもつ非東北人が引き起こしていると考えています。

トラさん、「東北人」と「非東北人」というカテゴリーをご自分で認めてしまってよろしいのでしょうか。

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[1065] Re: トラさんは「東北人」?!
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年2月14日 18時40分
「東北人」「非東北人」というカテゴリーを認めるのか。もちろん認めます。このようなものは世間にいくらでもある。

たとえば「関西人」。関西からはなれた土地に住む人間は、「関西人」なるものをアタマに描きます。それは、おおかたテレビで見る有名人、たとえば明石家さんまであるとか藤山寛美であるとかそういうものから得たイメージです。
しかし、関西に住む関西人からみるとあれは「京都人」であるとか「大阪人」だといいます。

先日、京都に行く機会がありましたが、京都の方に聞くと、東日本の人間が思っている「関西人」とは「大阪人」のことであり、いっしょにして欲しくないということでした。おそらく大阪の方に聞けば別の答が返ってくるのでしょう。

このようにヒトは頭の中に特定のキーワードに対応するイメージがあります。このイメージ上での「東北人」「非東北人」なのです。

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[1067] Re: なら苛められても仕方ない!?んだけれど。
投稿者名: 風
投稿日時: 2001年2月14日 22時54分
そうお考えであれば、いっぱひとからげに「東北人」というカテゴリーで難波先生にからかわれても、論理的にはしかたありませんね。
良くも悪くも、素朴で土俗的、トラさんって、日本の自治体で頑張っている「考古学研究者」(excavation archaeologist)のタイプサイトだと思います。
そうゆう人、大好きです。がんばってください。理屈を超えてる!

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[1073] Re: なら苛められても仕方ない!?んだけれど。
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年2月15日 12時04分
素朴で土俗的」で「理屈を越えている」わたしが、自治体の考古学行政担当者のタイプサイトにされるとは、全国の担当者のみなさん申し訳ない。

サンプル数が少ない段階で設定したタイプサイトが、あとでみるとトンデモなく特殊な例で、修正に一苦労することがよくありますので、ご注意ください。

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[1076] Re: 藤村新一と和田喜八郎
投稿者名: bambi
投稿日時: 2001年2月15日 14時15分
>昭和25(1950):藤村新一、誕生(宮城県黒川郡)。

>昭和40(1965)年:竹内巨麿、死去。山根菊子、死去。
       藤村新一、仙台育英高校を卒業。

[584]で、指摘しましたように、藤村新一氏は1950年生まれのようですので、
高校を卒業したのは、1969年3月のようです。

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[1078] Re: 藤村新一と和田喜八郎
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月15日 14時57分
> [584]で、指摘しましたように、藤村新一氏は1950年生まれのようですので、
> 高校を卒業したのは、1969年3月のようです。

Bambiさん、申し訳ありません。手元資料の訂正を怠っていたようです。
ところで藤村が1950年生まれという資料の出所を教えて下さいませんか。
貴方が「本人から聞いた」ということでも構いません。

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[1082] Re: 藤村新一氏の生年
投稿者名: bambi
投稿日時: 2001年2月15日 15時59分
>貴方が「本人から聞いた」ということでも構いません。
難波先生に、誤解されそうなので、申しておきますが、
私は、藤村氏は存じ上げません。
私は、一般人で、私の情報は、ほぼ100%近く、インターネットからです。
藤村氏の生年も、ニュースhttp://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/iseki/200011/05-7.html
で50歳と言われていたので1950年生まれか?と思っただけで、
今回は難波先生が、
>昭和25(1950):藤村新一、誕生(宮城県黒川郡)。

と、書いていらっしゃいましたので、そうだろうと、
思ったまでです。いい加減で、申し訳ありません。

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[1083] Re: 藤村新一の生年
投稿者名: トラ
投稿日時: 2001年2月15日 16時36分
http//www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6232/kiso17.htm(すみませんご自分で入力してください)という不思議なページを見つけました。(この掲示板でもう紹介されているのかもしれないけど)一種の「捏造事件」関連スクラップみたいなものなんですけど藤村氏の生年や出身地も載っていますよ。ただし出典がよく分からないけど。

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[1085] Re: 藤村新一の生年
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月15日 17時21分
トラさん、情報ありがとう。なるほどバッチリ書いてある。

◆藤村新一(ふじむら・しんいち)氏略歴
昭和25年、宮城県中新田町生まれ。仙台育英高卒。宮城県内の考古学愛好家らと50年に石器文化談話会、平成2年に東北旧石器文化研究所を結成。日本最古の旧石器時代遺跡の発掘調査への貢献で平成7年度第45回河北文化賞受賞。東北計器工業勤務。

これは「河北新報」の記事だと思います。
他の新聞社なら「河北文化賞」は載せません。
この記事を見ると「教科書の記載を書き換える」というのが、藤村の目標のひとつだったことがよく分かる。
それにしても「得意の絶頂の時代」に生まれた場所、高校、勤務先を書かせたのだから、「失意のどん底」になったから書くのは止めてくれとは、言えませんね。
それが「相互主義」というものです。

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[1086] 藤村新一のプロファイル
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月15日 18時00分
藤村新一は現在51歳。色弱がある。糖尿病が悪化している。

1950(昭和25):誕生(宮城県加美郡中新田町)
1969(昭和44):仙台育英高校卒
 1969年5月 東北計器工業、電力量計などの電力需給機器の製造開始
 (恐らく高卒後直ちにこの会社に就職した)
1972年11月に古川市で開かれた「宮城の考古展」に1週間毎日来た。
これが彼の行動が客観的に観察された初めである。当時彼は中新田町に住み、大和町の工場に勤めていた。
同じ頃、国学院大学の考古学学生だった佐々木和博と知り合いになっている。
1973年4月、多賀城に鎌田俊昭を訪ね、知り合いになり、鎌田を座散乱木遺跡に案内している。

だいぶ藤村の履歴がはっきりして来ましたね。
高卒後直ちに今の会社に就職していると思われるから、「合併」で冷や飯を食わされ出世をあきらめた、という解釈は成立しなくなった。
わからないのはなぜ就職後3年目の夏頃から「旧石器発掘で身を立てる」というような着想をもつようになったか?ということです。
これはやはり「岩宿の発見」という相沢の本の影響だろうか?
1970年代のはじめというと高度成長経済のピークですよ。まわりは全部「仕事人間」ばかりだったと思いますがね。
これが一番わからん点です。

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[1088] Re: 藤村新一のプロファイル(続き)
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月15日 20時03分
 藤村新一が1950年に宮城県加美郡中新田町に生まれたという情報は貴重ですね。
中新田は座散乱木や馬場壇のある岩出山町の隣町で、この町には江合川同様に、北西から南東にかけて流れる多田川があり、町はこの氾濫原のうえに成立している。近くに「新田」という地名もあり、江戸後期以後に水田耕作が可能となった地域でしょう。
藤村が中新田の市街地に住んでいたとすると、古川市までが10キロ、座散乱木までが10キロで、自転車ならどちらも30分でいける。
私の中学生頃の感覚では「自転車で30分」というと庭感覚でしたから、藤村に自由になる自転車があったら岩出山も古川も色麻町も三本木町も、地理はぜんぶ判っていたでしょう。

 ただ仙台育英高校への通学が問題で、「西古川」から陸羽東線に乗ったとしたら仙台まで20駅くらいある。これは鈍行なら2時間くらいかかるはずです。それとも仙台市内に下宿していたのだろうか?
いずれにしても1972年の考古展は、仙台の博物館を振り出しに県内を巡回したにもかかわらず、なぜよく知っている仙台市内の博物館に行かず、古川市の展覧会に行ったのだろうか?
それとも仙台育英高校は仙台にはないのか?
しかし仙台市の地図を見ると、仙台育英高校は仙石線宮城野原駅の前にあり、ちゃんと仙台市内ですね。
しかしこの位置までとうてい中新田から通学は無理ですね。
やはり下宿していたのだろうか?

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