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事件の謎が解けました [ 難波紘二 ] 2001/01/25 20:31 No.510
Re: 事件の謎が解けました [ トンビ ] 2001/01/26 13:11 No.521

[510] 事件の謎が解けました
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年1月25日 20時31分
事件のなぞが解けました

私のところに「石器文化談話会資料 第I集:1975〜1976.9.11(大崎地方の旧石器文化)」という製本した小冊子が送られてきました。例の学生さんが藤村からもらったという本です。
これは談話会の勉強会で配布された資料を綴じたもので、あちこちに万年筆、色鉛筆で書き込みがあります。
勉強会の資料はほとんど発表者が手書きで用意しており、それをゼロックスや青焼きでコピーしています。
だから発表者の筆跡と持ち主の筆跡を比較することができます。
これが藤村新一のものであることは間違いありません。(法医学教室なら、この本から指紋、血液型まで割り出すでしょう。PCRという方法を用いれば、遺伝子の一部も検出できるでしょう。しかし刑事犯の捜査ではないから、そこまでやる必要はありません)

プリントに発表者の名前が出るのは、1976.1.24の「第5回研究会」からで、発表は渋谷孝雄。
第1回は資料はなくて、第2回と第3回(75.8.30)では鎌田俊昭が作成したプリントで、石器の作製法、種類、東北地方における分布図、宮城県内の出土状況などを勉強している。レベルは初歩考古学のレベル。

この2回分25ページには、赤い色鉛筆で、囲み、アンダーライン、メモ書きがあり、学生の教科書への書き込みと変わらない。従って「これが私の教科書だった」という藤村の言葉は嘘ではない。
それを見ると、「ナイフ型石器」に「ナイフの身の形をし」という手書きの注が加えられている。
石器を少しでも知っているものは、このようなメモを書かない。
ということは1974年4月に鎌田と出会うまでは、藤村は石器についてまったくの素人であり、世に言われている「石器が好きで地元の山野を歩き回って石器を探した」というのが神話であることを示している。

もっと重要なことは「ナイフ型石器の要点」という第2回勉強会のプリントに、藤村の手で自ら発見した「旧石器」の発見場所が、自筆で記入されている!
これと河合信和への証言および岡村道雄執筆の「旧石器時代の東北」に記載された証言との整合性を調べれば、どの証言が「虚偽」であるかは明らかとなる。
結論からいえば、1974年4月以前に「新田」で発見された第4の旧石器は存在しない。
従って鎌田俊昭はこの点については、虚偽の説明をおこなっていることになる。

さらにこの「仮綴じ本」には、岡村道雄のレクチャーの手書き資料や鎌田と藤村の連名による「宮城県大崎地方における先土器時代遺跡群」(多賀城跡調査研究所紀要 II: 63-75, 1975.3)という初めての論文のコピーも含まれている。
ここでも鎌田は、藤村が集めた石器は「1974年4月には収集した石器は数百点におよび、それらの鑑定を鎌田に依頼した。多くの石器は縄文時代以後のものであったが、数点注目すべき石器があった」と藤村コレクションにあった旧石器の数をあいまいに表現している。
このようなあいまい性は、事実を偽る場合に典型的に見られる。

結論を述べよう。藤村新一はその最初から「遺跡のねつ造者」であった。
鎌田俊昭は、疑いをいだきながらも藤村を信じた。それが彼にとって得だったからである。
岡村については疑惑はあるが、証拠がない。しかし藤村のねつ造発覚以後、問題になった「石器および遺跡の検証」という問題に決着をつけるには、これ以上の詮索は必要ない。
法律では疑わしきこれを罰しない。科学では疑わしきは証拠として採用しない。
その原則が日本科学の名誉において貫徹されるならば、私はこれ以上の追求を控えよう。

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[521] Re: 事件の謎が解けました
投稿者名: トンビ
投稿日時: 2001年1月26日 13時11分
興味ある投稿で、コメントもしたいのですが、若干論理に難解な部分があり、誤解している可能性があります(私以外の読者もおそらくそうだと思います)

できれば、論理のサマリーを投稿していただけないでしょうか。

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