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ふしぎな話 [ 難波紘二 ] 2001/02/01 20:34 No.723
補足3:合意の存在? [ 難波紘二 ] 2001/02/02 21:48 No.763
Re: 補足3:合意の存在? [ 難波紘二 ] 2001/02/03 00:02 No.764
Re: ふしぎな話 [ 旅人2号 ] 2001/02/02 00:33 No.736
Re: No.736も削除を! [ ソフィー ] 2001/02/02 11:20 No.747
Re: お願い [ 管理人 ] 2001/02/02 01:11 No.737
Re: 容量の限界に就きお尋ね致します。 [ MT ] 2001/02/02 04:54 No.743
Re: 容量の限界に就きお尋ね致します。 [ 管理人 ] 2001/02/02 16:58 No.754
Re: ご回答有難うございました。 [ MT ] 2001/02/04 22:34 No.799
シュリーマン [ 旅人2号 ] 2001/02/02 12:25 No.750
ヒュースケン殺し [ 旅人2号 ] 2001/02/03 17:25 No.774
シーボルトの子供たち [ 旅人2号 ] 2001/02/04 19:12 No.790
横浜居留地 [ 旅人2号 ] 2001/02/05 15:20 No.834
考古学者ヘンリー・シーボルト [ 旅人2号 ] 2001/02/05 19:17 No.850
モースとシーボルト [ 旅人2号 ] 2001/02/06 12:42 No.890
ナウマン [ 旅人2号 ] 2001/02/06 15:25 No.896
補足2:魔の長方形 [ 難波紘二 ] 2001/02/02 19:20 No.758
Re: 補足2:魔の長方形 [ 難波紘二 ] 2001/02/02 19:57 No.759
Re: 補足2:魔の長方形 [ 難波紘二 ] 2001/02/09 19:04 No.983
Re: 1/25000地図の閲覧 [ 謹慎中の身 ] 2001/02/09 20:35 No.985
Re: (補足):座散乱木の位置 [ 謹慎の身 ] 2001/02/09 20:51 No.986
Re: 1/25000地図の閲覧 [ 難波紘二 ] 2001/02/09 21:34 No.987
縄文海進 [ 難波紘二 ] 2001/02/09 22:11 No.988
Re: 『日本第四紀地図』より [ 謹慎の身 ] 2001/02/10 09:57 No.1006
Re: 縄文海進 [ 謹慎の身 ] 2001/02/09 22:24 No.994
Re: 縄文海進 [ QR ] 2001/02/10 00:13 No.998
Re: 縄文海進 [ 難波紘二 ] 2001/02/10 00:33 No.999
ナウマン象について [ カメさん ] 2001/02/10 15:52 No.1007
Re: 縄文海進 [ 難波紘二 ] 2001/02/10 00:49 No.1000
晩氷期海進と後氷期海進 [ アームチェア ] 2001/02/10 04:10 No.1005
Re: 晩氷期海進と後氷期海進 [ 難波紘二 ] 2001/02/10 19:46 No.1008
Re: 晩氷期海進と後氷期海進 [ カメさん ] 2001/02/10 20:56 No.1009
Re: 晩氷期海進と後氷期海進 [ QR ] 2001/02/10 22:01 No.1010
補足1 [ 難波紘二 ] 2001/02/01 21:35 No.727
Re: その表紙の絵が見たい [ うささぎ ] 2001/02/01 21:54 No.729
Re: その表紙の絵が見たい [ 難波紘二 ] 2001/02/01 22:42 No.732
Re: 絵 [ 管理人 ] 2001/02/02 00:14 No.735
Re: 補足1 [ 岡村手下 ] 2001/02/02 20:30 No.760
Re: 補足1 [ 難波紘二 ] 2001/02/02 21:07 No.762
Re: 表紙の絵(1981)と馬場壇絵物語(1986) [ うささぎ ] 2001/02/04 19:07 No.789
先生のお言葉は… [ bambi ] 2001/02/15 15:29 No.1080
Re: 先生のお言葉は… [ 難波紘二 ] 2001/02/15 18:37 No.1087
Re: 適任者を求む [ うささぎ ] 2001/02/15 23:25 No.1091
Re: 適任者を求む [ 難波紘二 ] 2001/02/16 00:29 No.1094
Re: 旧石器時代の暮らしの想像図の伝統 [ うささぎ ] 2001/02/16 01:03 No.1096
Re: 旧石器時代の暮らしの想像図の伝統 [ 難波紘二 ] 2001/02/16 12:26 No.1106
Re: 適任者を求む [ 難波紘二 ] 2001/02/16 17:00 No.1117

[723] ふしぎな話
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月1日 20時34分
興味深い資料が手にはいりました。最近はファンがふえてきて、いろいろな資料を送ってくれるので、もう止めようと思っていた発言がなかなかやめられない。しかし博物館勤務とか民間のひとは積極的に協力してくれるけれど大学の研究者はぜんぜんだめですね。資料はあるのに見せてくれない。

ひとつは岡村道雄と藤沼邦彦の履歴書。もうひとつは座散乱木第三次発掘の際に開かれていた「旧石器時代の東北」展の解説書と「事業報告書」。もうひとつは「江合川流域の旧石器」(東北歴史資料館資料集14)。

1972年11月に、古川市の考古展で、藤村新一に旧石器のレクチャーをした藤沼は、当時県の職員で、1970年から「東北歴史資料館」の設立構想に関与していた。
1974年に「資料館」はオープンする。このとき藤沼はここに移った。身分は「研究科技師」。このとき鎌田は多賀城跡研究所にいた。岡村は東北大学にいた。翌年の2月に岡村は宮城平遺跡保存交渉を工場側と行う。
1975年に「談話会」が結成される。
1976年に藤沼は考古学研究科の研究員に昇格する。
1977年に藤沼は考古学研究科の科長に昇任。
1978年:岡村は大学を辞め、「資料館」の研究科技師として藤沼の部下になる。
1979年:
1980年:鎌田は「研究所」をやめ幼稚園の園長に。9月仙台市が行った「山田上の台」発掘で藤村と梶原が記者会見の当日「旧石器」を発見
1981年:「資料館」は「旧石器時代の東北」展を計画。年度始めより構想・打ち合わせはじまる。
    9月8日展示オープン
    「座散乱木第三次発掘」開始(9月27日から)
     この直前に岡村は毎日の服部隆一郎記者に「座散乱木で前期旧石器がでる」という話をリークする。翌日の一面トップの特ダネになる。
    10月3日、座散乱木で「第13層から加工した尖頭器がでる」
    10月9日「東北展」の「解説書」完成、出版(但し現物の奥付には9月8日刊行となっている)
    10月9日(土)「資料館」でシンポジウム開催
    10月10日(日)バス2台をチャーターして「県北部旧石器時代遺跡めぐり」開催。最終地点は「座散乱木遺跡発掘現場」
    同日座散乱木発掘終了。
    直ちに出土石器を「展示」会場に移す。
    (この出土品は、第二次調査時の地層をはぎ取ったパネルの前におかれた。これは「事業報告書」の配置図と写真により確認される)
1982年:岡村が「朝日奨励学術賞」を受賞。
1983年:「座散乱木遺跡報告書III」出版、岡村研究員に昇格、藤沼県教育庁へ出向(文化財保護課係長)
1984年:「馬場壇A第二次調査」実施。文化庁伊藤稔調査官が「現地指導」
1985年:「馬場壇A第三次調査」実施、科学者と「共同研究」
1986年:岡村考古学研究科科長に昇任
1987年:岡村文化庁へ転出。藤沼研究科長兼「研究部長」として復帰

これが岡村道雄が文化庁に「栄転」するまでの出来事です。
どう考えても、彼の人生にとって1981年がターニングポイントですね。

この年あまりにも幸運な「偶然」が多発している。
「展示会」と「第三次発掘」の間には、本来ならなんの関係もない。
それが展示会のスケジュールに合致するように石器が出てくる。またそれを待ちかまえていたかのように、出土品をただちに「展示会」会場に移す。こんなことって「プロット」がなくて、できるのかなあ?
これも「調査委員会」にきちんと調べてもらいたい。

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[763] 補足3:合意の存在?
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月2日 21時48分
藤村のもっとも初期の発見石器と遠藤の役割についての証言は矛盾が多い。

河合信和証言(1987):
1. 73年7月、座散乱木、石刃(露頭採取)
2. 73年8月15日午前、新田遺跡、黒曜石製彫刻刀型石器(露頭採取)
3. 73年8月15日午後、三太郎山B遺跡、石器(発掘)

「藤村手記」(1985公表、「江合川流域の旧石器に収録」
1. 73年8月15日午前、新田遺跡、黒曜石製彫刻刀型石器(露頭採取)
2. 73年8月15日午後、三太郎山A遺跡の近く、平らな石器(発掘)
(座散乱木の話がない)
鎌田鑑定では新田と村山遺跡で採取した石器の2点が旧石器といわれた。

「藤村メモ」(1984年に現所有者の手に渡ったもの):
岩出山町の項に
 城山、三太郎山B、座散乱木の手書き記入あり
 印刷分は、宮城平、村山の2件。
(この村山は下記「実績表」の75年の項に顔を出している)

「江合川流域」における他のページの記載:
p4表「江合川流域旧石器時代研究のあゆみ」(年度別実績表)
1973年における発見(藤村)は、「三太郎山B, 座散乱木、新田A」の3点のみ。
村山は75年度の実績に入っている。

p24「三太郎山B」の記載では、73年6月17日にここで「頁岩製ヘラ状石器」を第3層から発見したことになっている。(これは鎌田・藤村論文1975の第4図5に相当、と注がある。ところがこの石器は論文では「チャート製」となっている。頁岩ではない)

P42「座散乱木」の記載では、「遠藤智一氏は座散乱木の火山灰層中から、旧石器を発見していたが公表しないでいた。1973年7月にも当遺跡を訪れ、火山灰層中より石器を採取した」
ここでは73年7月に石器を採取したのは、藤村ではなく遠藤になっている。ところが73年の「実績表」ではこれは藤村の手柄になっている。

1984年の4月初めの「鎌田鑑定」に藤沼邦彦が立ち会ったという話は、河合証言以外に、他のどの資料にも記載がない。(故意に隠されている?)

藤村と遠藤の出会いは、きわめて近いところにいたにもかかわらず、きわめて不自然。
遠藤智一証言によれば「藤村が宮城平の工場予定地で土器や石器が出るという話を教育委員会に持ち込み、そこから電話を受けて、初めてそのことを知った。(中学校から2キロ足らずのところなのに)
そこで「地元の私でも知らない遺跡を、こんなに詳しく調査している人がいたのか」と驚いて、藤村に連絡をとり、「次に岩出山に来たときはぜひ立ち寄って下さい」と言った。すると数日して藤村が遠藤の自宅を訪れ、石器をいろいろ見せてくれた。
(これは74年のいつのことがわからない、と遠藤はいう。そういうことがあるだろうか?74年の4月には藤村は鎌田と接触して共同作業を始めているから、74年とすれば1月から3月の間しかない。しかしこの頃は雪に覆われて、遺跡は調査できない)

遠藤智一は、河合に「1949年に岩宿のニュースを聞いたとき、自分の集めている石器にも旧石器時代のものがあると確信し、高校で日本史を教えている先輩をたずね石器を見せたら、『縄文時代のもので前縄文ではない。こっちの石の破片は石器ではない』と一笑され、たいへん悔しい思いをした」と語っている。
彼にも「人を見返してやりたい」という動機はあった。

一番不思議なのは、「江合川流域の旧石器時代」における記述は、既存証言と矛盾し、また内部でも矛盾している。研究者というものは、自分のクレジットにかかわるミスにはきわめて鋭敏なものである。協同で執筆したのであるから、原稿もみたはずで、それなのに「73年7月に遠藤が座散乱木で石器を発見したのに、実績表では藤村と鎌田の業績になっている」というような矛盾をどうして許容したのか、理解に苦しむ。

これは藤村、鎌田、遠藤の間に、「合意があった」と考えるのが妥当であろう。

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[764] Re: 補足3:合意の存在?
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月3日 00時02分
> 藤村と遠藤の出会いは、きわめて近いところにいたにもかかわらず、きわめて不自然。
> 遠藤智一証言によれば「藤村が宮城平の工場予定地で土器や石器が出るという話を教育委員会に持ち込み、そこから電話を受けて、初めてそのことを知った。(中学校から2キロ足らずのところなのに)
> そこで「地元の私でも知らない遺跡を、こんなに詳しく調査している人がいたのか」と驚いて、藤村に連絡をとり、「次に岩出山に来たときはぜひ立ち寄って下さい」と言った。すると数日して藤村が遠藤の自宅を訪れ、石器をいろいろ見せてくれた。

 私は人口5000人の中国山脈のふもとの村で育ち、現在は人口3000人の過疎の町に暮らしています。
こういう集落では変化が乏しいから、町(村)の主なニュースはすぐに伝わります。中学の先生が工場進出の情報やそこで「土器や石器」が出たという噂を(中学校の目と鼻の先ですよ)、「よそ者の」藤村よりに先にキャッチできなかった、というのが田舎生活の実体験をもつ私には信じられない。
 もっとも東北は、広島県とはちがうといわれたら、反論できないが。
 

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[736] Re: ふしぎな話
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月2日 00時33分
わあ、難波の旦那はまだやってるよ。大方ソフィーてジジーの汚ねえやり方に立腹なすったんだろうね。
無内容な発言をえんえんと繰り返すねらいは、「擁護派」として旦那の発言の位置を下に下げて、簡単には人の目に触ねえようにしようって魂胆だということは、聡明な旦那だからちゃんと見抜いていなさるよ。
いちばんいいのは相手にしねえこと、旦那の発言に「いよーまってました、大統領」とかうささぎの旦那みてな、合いの手をいれるこったよ。
その点岡安の旦那はいまいち人生の修業がたりねえと思うよ。

ところで天狗党と考古学だがね。
中山道をすすんだ一党は元治元年(1864)の11月20日に和田峠にさしかかった。こりゃあ、海抜1531メートルの峠で、中山道一の難所だよ。
大砲をかついでこの峠を冬にこしたってえから、天狗は人間じゃあねえよ。
この峠を越したらふもとは諏訪湖で、下諏訪だ。ところがここに諏訪高島藩と松本藩の連合軍2000人が待ちかまえていた。追撃してくるのは幕軍だ。挟み撃ちにしようてえ、作戦よ。
そんで奇しくも和田峠で、天狗党が戦った最大の激戦が行われたのよ。
何しろ登り八里という坂を、大砲担いで登っていったら頂上に連合軍が待ちかまえていて、鉄砲玉が雨あられよ。とうていとうれねえ。だけど後にゃ幕府の追討軍だ。さがれねえ。
進退きわまった。
ところが山国兵部てえ軍師はてえしたものだ。このひとは70を越したご老体だよ。決死隊を60人ほど募ると、深沢山の谷川沿いに山を登らせて、連合軍の側面をつかせた。
相手は地元軍だよ。地形はわかっている。絶対に攻めてこねえと思っている所から、夕暮れにふいに敵が突出してきたもんだから、総崩れよ。
結局いくさは天狗党の大勝利で、夜もとっぷり暮れてから全軍下諏訪に降りていったよ。

なに、そのいくさと考古学がなんの関係があるだと。おめえさんも鈍いね、いや考古学のトーシローだね。
和田峠は黒曜石の一大産地じゃねえか。土地の人は黒曜石の破片を「星くず」と呼んでるよ。
だから古くからここは石器つくりにゃ欠かせなかったのよ。

そんだけの因縁かって?そうじゃねえよ。田中平八てえ、天狗党の隊員だよ。
この人の話はまたの機会にすらあ。

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[747] Re: No.736も削除を!
投稿者名: ソフィー (ホームページ)
投稿日時: 2001年2月2日 11時20分
管理人さんへ

この旅人2号さんの投稿も削除願います。フレームだけでなく、捏造問題と関係ないことが主体ですから。

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[737] Re: お願い
投稿者名: 管理人 (ホームページ)
投稿日時: 2001年2月2日 01時11分
旅人2号様

 大変恐縮ですが、この掲示板もそろそろ容量の心配をせねばならない時期が近づいてきました(発言数は2000発言まで保存できるそうですが、個々の発言が長いものが多いため、容量の方で先に限界が来そうです)。なので、できるだけ主題に関係のない内容については手短にお願いしたく存じます。「何でい、かてーこたぁ言わないでもらいたいねぇ」と切り返されそうですが、ご協力お願いいたします。

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[743] Re: 容量の限界に就きお尋ね致します。
投稿者名: MT
投稿日時: 2001年2月2日 04時54分
管理人さん
常々ご努力に敬服致して居ります。ここはあなたのシマなのですから、ご参集の皆さんに対し明確に方向を出されてよいと思います。「管理人」という用語では場を預かっている印象でよろしくないのでしょうね。支配人・座頭・検校・別当・棟梁・書記局長・頭目・親方・首領・大将・総書記・おっちゃん・大佐・等々他によい呼称はありますことか。

投稿の容量の限界に達しつつあるとの事。その場合、どのように情報が消えていきますでしょうか。投稿の番号順、スレッド単位で、あるいは何番までかが一度に消えるとか。消滅の時期と形がわかれば事前に、個人的に保存しますのでご教示ください。

――――――
難波さん
あなたの発言は丁度外務省の騒動のようなもので、一人の仕業で納めるつもりが構造化しかねない。海外でも紹介されて国際問題化するやも知れないから、よほどの確証がなければ安易な投稿は控えるべきです。

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[754] Re: 容量の限界に就きお尋ね致します。
投稿者名: 管理人 (ホームページ)
投稿日時: 2001年2月2日 16時58分
MT様

 やはり私の意識の中では、管理人です。

> 投稿の容量の限界に達しつつあるとの事。その場合、どのように情報が消えていきますでしょうか。投稿の番号順、スレッド単位で、あるいは何番までかが一度に消えるとか。消滅の時期と形がわかれば事前に、個人的に保存しますのでご教示ください。

ご心配ありがとうございます。容量がオーヴァーするにつれ、古い発言から順に消えていくようです。このペースであれば、まだあと2週間は大丈夫ではないかと踏んでおります。なお、私の方で全て過去ログは保存しておきますのでご心配なく(お心遣いだけでも感謝いたします)。直前になってバタバタするよりは、前もってご連絡しておくべきかと思いまして。

ただ万が一過去ログの出番となるようであれば、過去ログにすると、ツリー状に展開して表示するのは難しいので、スレッドごとに表示したいと思います。今後ともご質問などございましたら、いつでもお伺いいたしますので。

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[799] Re: ご回答有難うございました。
投稿者名: MT
投稿日時: 2001年2月4日 22時34分
お礼が遅くなりました。
掲示板の管理、ご苦労も多いかと思います。健康にご留意ください。

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[750] シュリーマン
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月2日 12時25分
やあすまねえ。お奉行様。容量が足りねえんでござんすか。じゃあっしも話を手短にしやしょう。
慶応元年(1865)てえ年はおもしれえ年だよ。この年の初めに天狗党は敦賀で切られなすった。だが田中平八さんはそんなかにゃいなかった。江戸の三田じゃ、福沢諭吉さんが「慶應義塾」て、私塾を始めなすった。京都じゃ前の年の9月に芹澤鴨を殺して近藤一派が新撰組の指導権を握った。京都の町はいまや会津様と新撰組が支配している。5月にゃ第二次長州征伐だ。紀州の徳川茂承さまを総大将に幕府軍が安芸の広島まで押し出したよ。

6月のことだ。あっしゃ薬やら実験材料を買い求めるていう箕作さんの用心棒で横浜にでかけたんだ。すると上海からついた船から下りてきたこざっぱりした異人さんに箕作の旦那がものを聞かれたんだ。箕作の旦那はオランダ語をやり、最近では英語もはじめていなすったからね。なかなか好奇心のつよい、人の良い紳士でね。友達になっちまったよ。箕作さんのいうには、この人は語学の天才で、ドイツ語、オランダ語、ロシア語、フランス語、スペイン語、英語となんでもできるらしいよ。そんで今ギリシア語を勉強してるんだそうだ。

何でも子供の時からの夢があって、ギリシアのホメロスとかいう昔の詩人が書いた詩集に唄われている「トロイア」という大昔の町の跡を掘り出すつもりだそうだ。
そんでまず貿易にたずさわり、インディゴてえ、これは藍染めにつかう藍のことだよ、染料の貿易で巨万の富を築いたって。まだ43歳だが、仕事は順調に行っているから、引退して年来の夢を果たすんだって。で、その前に「世界漫遊」の旅をやっているてえんだよ。おもしれえ人じゃあねえか。
このひとの耳はいいねえ。日本語の単語もすぐにおぼえてしまうよ。あっしあ気に入って、江戸案内を引き受けたよ。何でも40日あれば新しい言葉をマスターできるそうだ。7月の4日にサンフランシスコ行きの船に乗りなすったが、あっしああの方のことは一生忘れねえだろうよ。

田中平八はどうしたって?いやね、シュリーマンさん、とあの方はいうんだがね、の所に通っているうちにばったり会ったのよ。平八の旦那は和田峠のいくさの前に上州吉井の宿で、隊から脱走したんだって。この人は佐久間象山の教えも受けていなさるから、先が見えたんだろうね。でもまさか生きて幕軍の包囲網を抜けきれるとはだれも思っていなかった。
それがある貿易商の手代に入り込んでいるんだ。いや、変わり身がはえーや。「これからは貿易立国の時代だ」て、いろいろ話してくれた。そんならとあっしもシュリーマンさんを紹介してあげたよ。藍の貿易で財をなした話を、平八さんは目を輝かせて聞いていたよ。
それからだよ、あの人が独立して生糸の貿易を始めたのは。のちにこの人のことを世の中の人は「天下の糸平」と呼ぶことになるけどね。

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[774] ヒュースケン殺し
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月3日 17時25分
お奉行様のお達しだとあと2週間くらいで「目安箱」はお取り片付けだってね。
それまでに言いたいことを言っておくことだね。岡安の旦那、「短気は損気」てえ言いやすぜ。

ヒュースケンさんは生きておりなすったら、日本についての立派な「民俗誌」を残しなすったろうという話はまえに申しやしたが、この方はほんとに日本が好きでね、好奇心のかたまりみてえな人だったそうだ。

あの人はオランダ生まれで父親はアムステルダムの商人だったそうだが、幼いときに亡くなって家は貧乏だった。そんで21の時にアメリカはニューヨークへ移住なすった。ここでも2年くらいは苦労のしどうしで、うだつが上がらなかったが、人間運というものはわからねえ。

ペリー提督が黒船を率いて日本におしかけ、強引に公使館を開くことを約束させたが、さあ問題は初代公使だ。こいつは折良く中国は寧波の領事だったタウンゼント・ハリスてえかたがみずから大統領に売り込みに来たから、決まったが、問題は言葉だ。ハリスは英語しかできねえ。ところが当時の日本には英語ができるものなぞ一人もいねえ。会話も文書もぜんぶオランダ語を介してだよ。

でヒュースケンさんは運良くハリスの私設秘書にやとってもらえた、というわけだ。ハリス公使と幕府とのやりとりは、ぜんぶヒュースケンさんが通訳したてえわけよ。もちろん日本側には森山てえのがいたがね。

ハリスさんも独身だったが、この人のほうは「しんねりむっつり」だ。これはピューリタンの血を引いてるからね。それでも結局、下田副奉行のあっせんをいれて「お吉」てえ、妾をおきなすったがね。

それに比べると、ヒュースケンさんは開けっぴろげで、「遊び人」だったよ。そんで仲間の異人さんのなかでも、日本人にも人気があったね。
こんなことがあったよ。日本に来て2年目のことだった。
ヒュースケンさんは、裕福な商家に飛び込みで入った。その家の主人は喜んで迎えて、茶を御馳走して、その後手とか足とか眼とか鼻とか、体の部分の名前の英語を聞いてきたんだって。一家のものが興味しんしんで、みな集まっていたそうだ。
で、最後にその男は、着物の前をめくって、一物を出してその部分の名前を聞いたって。
「信じられません」とさすがのヒュースケンさんも、公使館での勉強会で報告したそうだ。
まあ、この当時の日本人はあけっぴろげで、おおらかだったからね。

そんなヒュースケンさんも、浪士に襲われて、非業の最期を遂げられた。
ところで殺したのは誰だと思う。なに、水戸の浪士だっていったじゃねえか、て。
いやあれは当時のうわさだよ。証拠はねえんだ。
迂闊なことを言うと、MTの旦那に「証拠もないのにいうな」ていわれるけどね、やったのは清河の旦那らしい。薩摩の伊牟田尚平てえお侍がもうひとりの首謀者だ。確かに万延元年12月には清河の旦那は京都から戻って江戸にいたんだよ。確かに旦那は剣を千葉周作先生にならって、北辰一刀流の達人だったからね。薩摩は示現流という居合い抜きで有名なところだ。殺しのやり方は、確かに腑に落ちるよ。

それにしても運命のいたずらには驚かされるね。その清河の旦那も、3年後の文久3年の4月には、江戸市中で見廻組に襲われて佐々木只三郎に切られて果てたよ。まだ34歳だった。ヒュースケンさんは亡くなったときが29歳だ。あの頃はずいぶん若い人が死んだね。

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[790] シーボルトの子供たち
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月4日 19時12分
パリでナポレオン三世が「万国博覧会」を1867年(慶応3)に開くって話は、慶応元年(1865)にフランス公使のロッシュさんから幕府のほうに伝えられた。このナポレオン三世てえ方はむかしナポレオンという信長公みてえな英傑がいなすったがその甥っ子だよ。
そんでロッシュさんが「ぜひ日本の文化を欧州の人々に紹介してもらいたい」というもんだから、幕府も乗り気になり各藩にも出品をすすめたね。

だがこれに応じたのは佐賀と薩摩だけさ。佐賀は佐野栄寿左衛門てえ方が実行委員長で主に焼き物を出品した。ところが薩摩は「丸に十の字」の国旗を掲げて「琉球薩摩国」という名前でエントリーしたもんで、パリで大もめさ。もちろん幕府は「日の丸」をかかげて「日本国」の代表だと主張したよ。

まあ、それは後の話でね。
話は変わるがシーボルト先生ね、あの方は長崎のオランダ商館付き医務官として最初に日本に来なすった。お滝さんという丸山の女郎を現地妻にして、「お稲」てえ娘ができた。
シーボルト先生は名前にフォンがつくよ。だからドイツの貴族の出身なのよ。おじさんがやはりシーボルトといってミュンヘン大学の解剖学の教授だったそうだ。シーボルト先生は日本が気に入ってね、ずいぶん本草の研究をなすったが、なに当時の日本人にはそういうものの値打ちなんざあわかりゃしねえ。で結局「シーボルト事件」てえのが起こって、国外追放になったのはどなたもご存じでござんしょう。それが文政12(1829)年のことさ。

それから30年近く立って、ハリスさんが初代のアメリカ公使で下田に乗り込んできて、ヒュースケンさん協力で幕府とかなり強引な談判をやって成立したのが「日米友好通商条約」で、安政5年(1958)のことさ。神奈川沖のポーハタン号の上で調印したから「神奈川条約」ともいうがね。ここまで来るのにさすがのハリスさんも3年かかったよ。独り身はこたえらあね。だから「唐人お吉」が必要だったのよ。
ところでアメリカが突破口を開いたもんで、オロシャ、フランス、オランダ、エゲレスも黙っちゃいねえ。結局同じ年のうちに、この5カ国全部が同じような条約に調印したよ。

さてそうなるとだな。条約によりシーボルト先生の追放は自動的に解除になるんだな。なぜかって?条約には「開港場における外国人の自由居住を認める」てえ、一項があるんだよ。日本に妻と娘を残しているシーボルト先生がこれを見逃すものか。
そんで安政6年(1859)にオランダ商社の顧問てえ身分で長崎に戻って来なすったのよ。
もっともシーボルト先生は、ドイツで1845年にヘレーネていう貴族の娘と正式に結婚なすって、子供もできていた。こんときゃ12歳になるアレクサンダー坊ちゃんを連れていなすった。先生のご長男さ。お滝さんやお稲さんとの再会の話は省略するよ。

シーボルト先生は日本語はぺらぺらだよ。それに長崎にも江戸にも、日本各地に長崎の「鳴滝塾」で教えた教え子が散らばっている。それに先生は日本と日本人を心から愛していなすったからね、江戸に出てピンチの幕府にいろいろ建言をなすった。だもんでオランダ総領事と対立して、結局坊ちゃんをおいて文久2年(1862)に帰国なすった。もう年でね、体調も悪かった。日本への夢を次男のハインリッヒ坊ちゃんに託して、1865年に70歳で亡くなられたよ。このヘンリー坊ちゃんは、アレックス坊ちゃんやお父上とは違って、どっちかいうと内向的で、はにかみ屋のところがあり、結局アレックス坊ちゃんは外交官として活躍し、ヘンリー坊ちゃんは日本研究に手を染めることになるんだな。

さて日本に残ったアレックス坊ちゃんは長崎で日本語が上達して、英語、フランス語も話せるようになった。そんで英国領事館の通訳官として採用されたのよ。この頃の英国の日本総領事はパークスさんで、フランスのロッシュ公使とは対立していたよ。無理もねえ、フランスは幕府を後押しし、英国は生麦事件が決着すると薩摩と手を結んでいたからね。

慶応2年(1866)にそろそろパリに送る代表団の人選をしなきゃあいけねえ、という時にとんでもねえ事件が起きた。将軍様が疱瘡(天然痘)で大阪城のなかで亡くなられたのよ。まだ21歳だよ。可哀想に皇女和宮は若後家だよ。そんで宗家には適任者なしということで一橋家を継いでいた慶喜さまが後任の将軍におなりなすった。あっしゃあ、このいきさつは前にも話した新門辰五郎の親分から聞いたが、親分も張り切ってたね。「おい俺も娘のお陰で、将軍様のお身内だ。俺もいろいろ極道をしてきたがこれからあ命がけで徳川様をお守りするぜ」といいなすった。

慶喜さまはパリ派遣の使節団の団長本当はなりたかったんだ。あの方は新しい物好きだからね。ところがやむなく将軍にされてしまった。で、「自分の名代に」ということで自分の弟の昭武さまを清水家の跡取りにすえて、団長にしなすった。清水家てえのは江戸城の清水門内に屋敷があって徳川を名乗れる徳川宗家のお身内よ。ナポレオン三世の皇太子が当時11歳で昭武さまが14歳だから、釣り合いがとれていいんだという理屈を立てた老中もあったがね。

この代表団のメンバーが面白えや。事務総長が渋沢篤太夫、後の渋沢栄一だよ。この人ももとは近藤や土方みてえに三多摩の壮士なんだが、慶喜さまに拾われて一橋家の家臣になっていなすった。慶喜さまが将軍におなりなさるとすぐさま徳川家に移籍よ。幕臣になられた、そんだけの実力のあるひとだよ。
面白えなあ、あっしが横浜にお供した箕作さんが、通訳で入ったね。それに奥医師の高松凌雲さまもお入りなされた。
これに日本人でねえ通訳が二人付いた。一人はフランス領事のレオン・デュリー。もう一人がなんと長崎の英国領事館の通訳官アレックス・シーボルト。こりゃね、パークスの差し金で、アレックス坊ちゃんに特別休暇を与え、使節団の船に乗り込ませたってえわけ。つまりフランス側の手の内や幕府の内情を探らせ、英国に報告させようと言う魂胆さ。

1867(慶応3)年に使節団はパリに着いたよ。薩摩が送った使節団は、家老の岩下左次衛門が団長で、森有礼や五代才助が団員でいたよ。鍋島藩は行きの船んなかで展示の実務責任者の野中元右衛門(古水)てえ佐賀の豪商が病気になり、マルセイユ・パリ間の汽車んなかで急死してしまった。そんで佐野さんはパリに着いてからえれえ苦労をしなすった。まあこの時の苦労が人間を育てたね。あの人は後の佐野常民で、日本赤十字の創立者よ。

さて久しぶりに故国にもどったアレックス坊ちゃんは、弟のヘンリー坊ちゃんとお会いなすった。15歳になっていなすった。日本の若者も一緒だった。そんですぐ日本語を覚えたそうだ。お父上に託された「日本の風俗・習慣を研究してくれ」ていう夢もあったね。そんで1869年に日本に帰るアレックスさん(もう坊ちゃんたあ呼べねえやね。21歳だもの)について日本に来なすった。日本にたいする好奇心で矢も立てもたまらなかんだろうが、こりゃよくなかったね。何しろ高校を中退だ。やっぱり大成するには基礎になる学問をみっちりやっておかなくちゃね。

さあそんでヘンリー坊ちゃんの日本での「考古学研究」がはじまるんだが、長くなったから次にすらあ。

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[834] 横浜居留地
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月5日 15時20分
この頃の重大事件は英国のダーウィンてえお方が「種の起源」てえ本を出版なすったことさ。安政6(1859)年のことだよ。さあこれで人間てえものはある日突然に神様がおつくりになったものじゃあねえ、はじめに原始的な生命体があって、ながいながい「進化」の果てに、サルみてえな動物から人間が生まれたんだてえ、大きな理屈が生まれたわけさ。そんなら大昔にはいまとは違った人間が暮らしていたにちげえねえ、ってことになるじゃあねえか。そいつを何とか土を掘って調べてみてえ、そう思うのが人情だろう。これが近代考古学の始まりよ。出羽鶴岡の松森の旦那の「弄石学」と「考古学」の大きな違いは、ここにあるのよ。

ダーウィンてえ人はえれー方だよ。この「進化」てえ考え方で物質から人間の出現や文化までぜんぶ統一的に説明がつくようになるんだからね。もちろん初めは誤解があったり、とんでもねえ応用がされたりしたが、基本になる考えの正しさは150年後の21世紀になっても、みじんも揺らいでいねえ。

それりゃあともかく、話を安政6(1859)年の横浜にもどすぜ。
この年の6月幕府は神奈川を開港しなすった。これはハリスさんとの約束だった。ところが神奈川は東海道の宿場で日本人の往来が激しい。この頃は攘夷派の浪人がうようよといて、江戸の公使館も焼き討ちされたり、神奈川でもオロシャの水兵が斬り殺されたり、オランダ商船の船長が殺されたり、それに万延(1860)年暮れの江戸でのヒュースケン暗殺事件がおこったりした。江戸も神奈川も危なくてしょうがない。江戸にいた各国公使は神奈川に立ち退くし、その神奈川も安全でねえ。幕府も困り果てて、神奈川の対岸の横浜ってえ漁村に目を付けた。神奈川の西には小さな半島が突きだしていて神奈川の港を囲い込むようになっている。この半島の北側に横浜っていう浜があって、ちょうど神奈川の対岸になっているんだな。ここの海は深くて軍艦や商船が入るにゃもってこいだ。浜にゃ神奈川から小舟で行くか半島の南にある根岸てえ村から細い山道をたどるしか行きようがねえんだ。そんでここを異人さんの居留地にしようという話になったのさ。この貧しい猟師が住んでいた横浜村が後の大都市横浜のはじまりさ。

 そんで海岸を埋め立て陸地との境に掘り割りをめぐらし、入り口に番所をもうけて攘夷浪人が入ってこれねえようにしたのさ。まあ長崎の出島の大きいのができたようなもんさ。条約では「神奈川開港」だったが実際は「横浜開港」になってしまった。ハリスさんだけは「約束が違う」て、怒って神奈川から動かなかったが、他の国の公使や領事連中それに商人たちは生命が惜しいからね、みんな横浜居留地に移ったよ。

この頃の横浜には安政6年にアメリカから来た宣教師のヘボンさんがいたね。この人も医者だ。本当はヘップバーンというんだが、日本人はそれが発音できなくてヘボンさんと呼んでいたね。それから英国の公使館には医官のウィリスさんがいたよ。この人は名医だったよ。生麦事件のときに負傷者を治療したのはこのひとさ。後に薩摩の西郷さんに見込まれて鹿児島に医学校をつくったよ。
プロシアてえ国はその頃やっとビスマルクてえ宰相が出なすってやっと国を統一したところだったんで、日本への進出が遅れたのよ。そんでやっと万延元年(1860)の暮れに幕府と条約を結んで、翌年横浜に公使館ができた。だからシーボルト先生の再来日には間に合わなかったというわけだ。そんで先生はオランダの顧問になったという次第さ。
ウィリスさんの親友になったアーネスト・サトウさんは文久2年(1862)に英国公使館の通訳官として横浜にきたよ。サトウてえ名前は日本にもあるもんだから、日本人に親しまれてね。この人は名前でずいぶん得をしたよ。オールコック英国公使が任期を終えて帰国したのが元治元年(1864)の暮れだ。後任には翌年5月にパークスさんが来なすった。
オールコックさんが横浜を発つちょっと前に、鎌倉で英国陸軍のボールドウィン少佐とバード中尉が斬り殺されるという事件がおこった。やったのは谷田部藩のご浪人で清水清次てえお方だ。「攘夷」の一念に凝り固まっていたんだねえ。そんで捕まって罪を認めたんで12月の28日に横浜の英国守備隊の真ん前で打ち首になった。あっしも見物に行ったよ。ウィリスさんもサトウさんもいなすった。ベアトていう写真師もいたよ。清水の首は居留地の北川にある吉田橋のたもとに3日間さらされたよ。そんでベアトさんが写真を撮ったからいまでもどこかに残っていると思うよ。清水さんはこう口を少し開いてなんかいいたそうな顔をしていたが、全体としては安らかだったね。信念どおり、攘夷を実行して毛唐をふたり叩き切ったもんで、満足して死んだんだろうね。

いやまた話が脇へそれちまった。すまねえ。次はヘンリー坊ちゃんとモースさんの関係を話すよ。

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[850] 考古学者ヘンリー・シーボルト
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月5日 19時17分
万延元年(1960)に開かれた横浜居留地は、サトウさんの来なすった文久2(1862)年にはかなり大きくなっていて平屋建て以外に2階建ての家も何軒か建っていた。ただ道が狭くてね、何しろ馬車なぞ知らないものだから、手押し車が通れるくれえな幅しかなかったのよ。この年はシーボルト先生がオランダ領事と対立して帰国なすった年だ。で残されたアレックス坊ちゃんは英国領事館の通訳になったてえ話は前にしただろう。

パークス公使がお見えになったのが慶応元年(1865)。この方が展開した外交は「恫喝外交」よ。
フランスが幕府の後押しをしていたのは前にお話しましたね。パークスさんは薩摩や長州の後押しをするつもりだった。5月に長崎に着いたとき討幕派の情報をいろいろ仕入れて、今の政府は長くない、内乱がはじまる、と読んだらしいね。アレックス坊ちゃんもこの情報にはからんでいるかも知れねえ。

パークさんはやり手で着任すると間もなく各国の公使を説得して、朝廷に対する艦隊のデモンストレーションを実行した。各国の連合艦隊が大阪湾に出現したので、幕府もあわてたが朝廷は肝をつぶした。これで頭の固い公家どもも「攘夷など絶対不可能」てことがよく分かったから、まあよかったんだがね。こんときにパークスさんの通訳で活躍したのは、サトウさんではなくてアレクサンダー・フォン・シーボルトつまりアレックス坊ちゃんだった。

慶応2年(1866 )の暮れに泉岳寺に新しい公使館ができるとパークス公使はそこに移りなすった。公使館の通訳官にはアレックス坊ちゃんとサトウさんがおなりなすった。医務官のウィリスさんも移ったよ。この年の秋に横浜居留地で大火事が起こって居留地の4分の一と周囲の日本人町の3分の一が丸焼けになってしまったので、パークスさんはこの際公使館を江戸に戻そうとなすったのさ。
この年の8月に将軍家茂さまがお亡くなりになり、慶喜さまが将軍になられたことは前に話したな。それから後が大変よ。大阪城に入った慶喜さまはもう江戸にお戻りになる時間がねえ。この人はロッシュ公使の話を聞いてナポレオン皇帝が親政するフランスみてえな国家つくりも考えていなすったからね。ぜんぶ自分でお指図をなさる。
そんで新門の親分は大勢の子分どもをつれて、「殿様の身にもしものことがあってはならねえ」って、身辺警備に大阪へいっちまった。あっしもよっぽどついていこうかと思ったんだがね。

だがね、何となくこれからの舞台は江戸だなと思って、横浜を後にして江戸にもどったよ。なに本来が無宿だからね、引っ越しなんてわきゃーねえんで。それが正解だったよ。

明けりゃ慶応3年(1867)、江戸幕府最後の年になる新年は箕作さんのところに年始に行ったよ。フランスへ行くてんで準備に忙しかったよ。そんで昭武さまを将軍ご名代とする「パリ万博」派遣団は1月11日に横浜から出向した。この船にパークスさんが特別休暇を与えて、アレックス坊ちゃんを乗り込ませたんだよ。
慶喜さまは聡明で、進取の精神にとんでいなされて、写真にこったり、ウシやブタの肉を食って「ブタ一」(ブタくった一橋)とあだ名されたり、いろいろなんだが、粘り気がない。その点岡安の旦那と似ていなさる。長州だの薩摩だの土佐の坂本龍馬だの公家衆だのに、こづき回されて嫌気がさすと、あっさり「大政奉還」という手にでなすった。そんで朝廷が許可すると「将軍辞職」を願い出なされた。つまり「お前さんたちに日本が統治できるならやってみなさい」て、放り投げたんだな。

寝耳に水は双方ともで、「政権の平和的移行なぞ歴史の本に書いてない」と両軍が鳥羽伏見で戦になった。これが慶応4(1968)の正月のことだよ。もっともこの年は9月に新政府が「明治」てえ、年号をご発表になったから慶応4年とは呼ばないがね。
幕府軍は先ごめ銃で、長州・薩摩はパークスの斡旋で元ごめ銃で武装していた。いくさは勝負にならねえ。新撰組もあらかたここで戦死してしまった。そんで慶喜さまは大阪湾から幕府の軍艦に乗り、江戸へ逃げて帰りなすった。フランス公使は地団駄踏んでくやしがったそうだ。「パークスにやられた」ってね。
新門の親方も悄然として大阪からお戻りになったよ。

理屈の上では慶喜さまのなされようは筋が通っているのだが、家来どもはおさまらねえし、新政府の方でも「血をみなければ維新回天ではない」と思っているのが多かった。そんで5月には上野で彰義隊と大村益次郎さんの引きなさる官軍との戦があるし、8月には榎本さまが幕府の軍艦8隻を率いて蝦夷に脱走しなすった。敗残の新撰組も近藤さんが率いて甲州で一戦したがあえなく敗れ、近藤は下総でつかまり、斬首された。土方さんだけは会津に落ち延び、ついに函館まで行って官軍と最後の一戦をやってそこでお果てなすった。生き残りは永倉新八さんだけだよ。これも田中平八さんみえてな人だよ。

同じ5月には会津が中心になって「奥羽越列藩同盟」ができて、官軍との全面対決の戦争になっちまった。「戊辰戦争」だよ。高森の旦那も、長岡の河合継之助さまも学問どころじゃあない。いまや戦の総指揮だよ。パリでこれを聞いた高松凌雲さんも医学の勉強はそっちのけで、帰国して函館へいっちまったよ。
まあそんなわけで慶応4年=明治元年てえ年は、日本中がめちゃくちゃだった。

アレックス・シーボルトさんが弟のハインリッヒ(ヘンリー)坊ちゃんをつれて日本に戻ってきたのは、騒動が一段落ついた明治2(1869)年のことだ。サトウさんは喜んだね。これでやっと1年間の休暇がとれるって。
ヘンリー坊ちゃんは、お兄さんの英国大使館の仕事を手伝いながら、外交の仕事を覚え、日本語の勉強をしなすったが、お兄さんがオーストリアと日本の「通商修好条約」締結に骨を折ったもので、その手づるで新たに開設されたオーストリア公使館の通訳に採用された。この頃からすでに趣味は日本研究で、古美術、骨董の収集を始めていなすった。

1871(明治4)年に、新政府の岩倉、木戸、伊藤という実力者は欧米歴訪の旅に出た。「明治遣欧使節」てえやつよ。こりゃあ行ってよかったね。実力者が留学してみると、「日本はサルの国」と軽蔑されている事情がよーくわかったてえ、あっしはのちに木戸孝允公からじかにきいたよ。あれは山口の浄土真宗の坊さんについていったときだよ。「サルの国が文明国にならなけりゃ、対等の条約は結べない」と言われたって。木戸さんも伊藤さんもずいぶん悔しがっていたよ。伊藤さんなんか「ルーマニアてえ国は日本よりも山猿が大勢住んでる。なのにルーマニアとは対等で日本とは対等になれねえというのは、ルーマニアが耶蘇教で日本がそうでねえ、ということだけじゃないか。こりゃあ、露骨な人種差別だ」て、本当に怒っていたよ。

そんで政府も「開化政策」をとるしかないと決めたんだよ。
1873(明治6)年にオーストリアのウィーンで「万国博覧会」が開かれることになった。明治5年に、欧州からの連絡で、日本政府が参加を決めたからヘンリーさんに出番がまわってきたよ。アレックスさんも協力したね。文部省に博物局てのが作られ蜷川式胤という人が担当になった。この人が正倉院をはじめ、全国の社寺の宝物の目録をつくったのさ。ヘンリーさんは日本語は読み書きとも達者だからすぐにこの人とも友達になった。もう一人、日本橋の武蔵屋吉平衛という古美術商とも知り合いになった。この三人が協力して、日本からウィーン万博に出す品目を選んだのよ。
そんでヘンリーさんは博覧会の日本委員に選ばれて、1873(明治6)年にウィーンに行きなすった。その前に武蔵屋の娘お花さんとできて夫婦になりなすった。
ウィーンの博覧会は大成功で、特に出品物は一流のものばかりだったから、折からの日本ブームで各国の王様が入手を争い、全部売れたそうだ。ヘンリーさんは勲章をもらったよ。

で、やはり自分には学問がないということを自覚していなすったんだろうね、デンマーク国立博物館のウォルソ館長を訪ねて弟子入りなすった。ウォルソ教授はトムセンの弟子だよ。なにトムセンなんてしらねえ?お前さんは考古学のトーシローだね。石器時代、青銅器時代、鉄器時代というふうに人間の世は進歩してきたのだ、という「3時代区分」をはじめて唱えたひとじゃねえか。
弟子と言っても昔リンネという人がやった方法と同じでね、ウォルソ館長の依頼で日本からいろいろな動植物のコレクションを送る、ウォルソさんは手紙でヘンリーさんを指導する、というような関係だよ。ウォルソ館長は貝塚が古代の人間のゴミ捨て場であることを証明していたし、後には文部大臣にもなってヨーロッパ考古学の大長老になったから、ヘンリーさんの師匠を選ぶ目は間違っていなかったのさ。
1874(明治7)年に日本に戻ると、精力的に考古学、民俗学の研究を始めたよ。そんで明治5年9月には、横浜・新橋間の鉄道が完成して、大森の貝塚も切り通しのところに顔を出していたんだ。だが当時の人は、貝塚なんてしらねえから、変なところから貝殻が出るくれえに思っていたのさ。
しかしウォルソ館長のところから戻ったヘンリーさんには、それが貝塚だってわかった。だから研究は続けていたが、手紙ウォルソ館長に知らせただけさ。まさか強敵があらわれて、手柄をぜんぶ引っさらっていくとは思ってもいなかったからね。

その強敵がモースさんなのよ。その話はまたにすらあ。

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[890] モースとシーボルト
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月6日 12時42分
モースさんてえ方はアメリカのメーン州ポートランドの生まれで、学歴は中卒だよ。鉄道会社の製図工として働く傍ら貝の研究を趣味でやっていなすった。この頃はまだ学者と素人が判然と分かれていなかったのさ。
そんで貝の研究者としては名前が知られていた。ボストンで働いていたからね、ハーバード大学の動物の教授だったアガシてえ方が、助手に採用された。これで学者への道をつかんだのだが、ダーウィンの「種の起源」を出たばかりのを読んで、「これだ!」って思ったんだね。進化という考えで、貝を分類するとよくわかるんだ。ところがアガシ教授は進化論大反対なもんで、3年で辞めて元の民間人にかえり、博物学の雑誌の刊行と進化論の講演会で食っていくことにした。

貝を調べているうちに、二枚貝のかっこうはしているがどうも貝類(軟体動物)でないものを東海岸で見つけたんだね。これは椀足類といってどちらかと言えばホヤとかヒトデに近いが、貝殻をもっているから軟体動物の二枚貝と間違われるんだね。これは化石種は何千種とあるが、現存種は300位しかいない。アメリカには一種だけだそうだ。ところが日本にはそれが30種ぐらいいると文献で読んだもんで、行ってみたくてしょうがない。そんで金を貯めて3ヶ月の予定で日本に出かけたというわけさ。だからモースさんには日本文化にたいする興味は初めはなかったのさ。その代わり貝に関する専門知識は山ほどあった。
そこが歴史に興味はあっても、動物学にはあまり興味のなかったヘンリー坊ちゃんとの大きな違いだった。

モースさんが横浜に着いたのは明治10(1877)年の6月18日。その日はちょうど彼の40歳の誕生日だった。そんで横浜に宿をとり、6月20日に横浜駅から汽車に乗り、東京に向かった。文部省顧問にディヴィッド・マレーていう人がいて、国を出るとき紹介状をもらっていたもんで表敬訪問して、腕足類研究の話をしたんだよ。

ところがマレーは、「それなら日本に滞在して本格的に研究したらどうか」というんだよ。
そんで「東京帝国大学理学部に動物学・生理学の教授の職が空いている。それに推薦しよう」ととんでもねえことを言いだした。アガシ教授と喧嘩してハーバード大学を辞めたモースさんとしては渡りに船だよ。マレーにしてみれば、助手とはいえ全米一のハーバード大学の教官をつとめ、軟体動物の権威だからね、年齢も40歳だし、植民地みてえな後進国の大学教授には何の不足もねえ、というわけだ。
そんで早くも7月12日には東大動物生理学教授任命され、7月17日からは江ノ島に「腕足類」の臨海実験所を設け、ここで新学期がはじまる9月12日まで、40日間日本の貝類を研究するという手際のよさだ。研究には、東京大学が漁師の家を実験所として借り受け、助手として松村任三をつけるという特別待遇だったから、マレーの肩入れ具合がわかろうというもんだよ。

ところでモースさんはこの年の11月 27日発行の英国の週刊科学誌ネイチャーに「大森貝塚発見」の第一報を発表している。
そんなかで、
「今年の6月初めて東京に行った折、私は大森という名の停車場近くで車窓から貝殻堆積の見事な断面を観察した」
と述べていて、これで世の中の多くの人は、モースさんが大森貝塚を発見したのは6月の20日、マレーさんに会いに東京へ行った日だ、と思っているよ。
だがね、そりゃあ嘘だと思うよ。

モースさんはアメリカにいなさるときフロリダの貝塚を発掘しているし、ノルウェーやデンマークで発見された貝塚から土器や石器が出てきて、それが先史時代の人間の生活の跡だということをちゃんと知っておりなすった。だから6月20日に大森貝塚に気づいていたら、江ノ島でのんびりと40日も貝の研究なんかするものか。必ず助手の松村さんをつれて、大森にでかけたはずだよ。だが行ってねえんだな。

新学期が9月12日にはじまり、モースさんも講義を始めた。そんで現場をはじめて訪れたのは9月16日(日)のことだよ。この日は助手の松村任三さん、松浦佐用彦さん、それに佐々木忠次郎さんがお供した。そんで土器の破片なんかの採取をやっているんだ。
それからの動きがたいへんあわただしい。
その後間もなく、モースさんはマレーさんを連れてここにまた来たよ。「これが貝塚なんだ。これはとても貴重なものなんだ」てえことを説明するためさ。もちろんこの時も発掘と採取をおこなった。
そんで一方ですぐに論文を書き始めたよ。わずか5日で短い論文を書き上げ、9月21日にネイチャーの編集部あてに発送しているよ。
もう一方でモースさんは東京大学と文部省に手を廻して10月1日には、東京大学から東京府にたいして「大森の貝塚は東京大学が調査するから他から発掘の願い出があっても許可しないように」という通知を出しているよ。

6月20日に発見したものを、3ヶ月近く放っておいてさ、9月の中頃あわてて掘って、すぐに論文書くは、「他のものに掘らせるな」という通知を出すは、はないだろう? 誰かと競り合っていると思ったほうがいいやね。
それがヘンリー・シーボルトさんなのよ。

あっしは、ヘンリー坊ちゃんが先に貝塚を見つけていなすったと思うよ。モースさんはそれをきっと誰かから聞いたんだな。松村さんや佐々木さんのような日本人じゃなくて、きっと東京の築地に住んでいた外国人仲間の誰かだと思うよ。あの頃、英国人には地震学のジョン・ミルン教授とか、民間人ヘンリー・フォールズさんがいたし、米国人にはヘボンさんがいたからね。たぶんヘボンさんあたりが情報源かもしれないね。フォールズさんとモースさんは、土器の研究ではやはり競り合っていたよ。

論文を発送した後もモースさんは「大森貝塚」と「進化論」の教育講演で大忙しさ。
10月6日からモースさんは東京大学でダーウィンの進化論に関する3回の連続講演を行っているよ。これはすぐに日本語に翻訳されて、当時の新聞に掲載されたよ。
10月9日には、第3回目の大森貝塚発掘調査をたいそうな人数をそろえて、行っておられるよ。

モースさんは11月1日に一時帰国なすった。もともと3ヶ月の予定で貝の採集に来なすったんだが、生きた貝じゃなくて死んだ「貝塚」を掘り当てたもんで、計画は大いに変わった。それに職も得たしね。そんで再来日は1987(明治11)年の4月3日。このときはもう永住を前提に奥さんや子供さん、それに召使いふたりを同伴していなすった。アメリカじゃ貧乏暮らしで召使いなんか雇えるわけがなかったが、いまじゃ帝国大学教授さまでたいそうな高給取りよ。召使いのふたりくらいどうってことあねえ。でもね、本国からつれてくるなんてなあ、当時でも異例だよ。たいていは日本人を雇ったもんだ。

さあ、そんで11月27日にネイチャーが発行され、それにモース論文が載ったもんで、日本でも欧州でも大騒ぎさ。一番頭にきたのが、ヘンリー坊ちゃんさね。
この続きは、又にすらあ。

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[896] ナウマン
投稿者名: 旅人2号
投稿日時: 2001年2月6日 15時25分
その前にちょっとナウマンさんについて話しておかなくちゃ。
エドムンド・ナウマンさんはドイツ人でね、ミュンヘン大学を卒業した博士さまだよ。来日したのが明治 8(1875)年で東京開成校の教師になられた。これが東京帝大の前身のひとつさ。専門は地質学、地理学だ。
このひとは一種の天才だね。日本という島国の地質構造を解明したいというのが来日の目的だよ。まだ22歳だった。そんで大した仕事をなさった。ナウマン象の発見なんて序の口だよ。

この人は数年のうちに日本中を歩いて、本州が富士山と浅間山の間で折れ曲がって、大きな裂け目ができていることを見つけたよ。それに「フォッサ・マグナ」てえ名前をつけたのもこのひとさ。そんで日本列島は全体として日本海側に折れ曲がっていて、日本海側が「内帯」で太平洋側が「外帯」だと見抜きなすった。
またフォッサ・マグナの溝が分かれて紀州半島を横断し、四国を横走して九州の北部に抜けているということも見つけなすった。これが「中央構造線」だよ。

そんで東大ができた明治10年にはすぐに理学部の冶金学と地質学の教授になりなすったが、なにしろ天才肌の学者だからね、教育なんてかったるいことは面白くねえんだな。そんで内務省をつついて地理局に地質課をつくらせると、明治12年にはさっさと教授を辞めて、そこの課員になっちまった。こっちのほうがよっぽど研究ができると思ったんだね。地質課はナウマンさんの発見の連続で、3年後には独立して「地質調査所」になったよ。今の国土地理院の前身だな。しかしナウマンさんは地位にも権力にも興味がねえ。所長は和田維四郎という日本人にまかせて、自分は相変わらず所員のままだ。

ところでこのナウマンさんはヘンリー坊ちゃんと親しかった。
坊ちゃんと違って、この人は大学を主席で卒業した秀才で、博士の学位ももっていたくれえだから、どだい学問の基礎と幅が違う。おまけに地質学、化石学なんてのはプロだ。明治5年に開通した汽車に乗って横浜へ行くたんびに大森貝塚の側をとおるよ。あれが貝塚だってえことは、きっとわかったにちげえねえ。
だけど日本列島をまるごと地質学的に解明しょうという大きな目標をもったナウマンさんにとっては、貝塚なんか目じゃなかった。そんで研究はヘンリー坊ちゃんにくれてやったんだろうよ。

面白いのはモースさんは「大森貝塚」てえ名前でネイチャーに論文書いて、そんでこれが有名になってしまったけど、それは大森駅のちかくにあったからで、本当の地名は大井村さ。今の大井競馬場があるところさ。
そのことは10月1日付の東京府あての通知を見て、東京府が調べてわかったことなのよ。貝塚の一部は工部省の敷地内にあったが、大部分は桜井甚右衛門てえ百姓の私有地だった。で東京大学は銭を払ってこの土地を甚右衛門から借り上げてしまった。大森貝塚を独占したわけよ。

そうなるとヘンリー坊ちゃんは盗掘するしか発掘のしようがなくなるよ。でもね、あの人はそんなことをするひとじゃねえ。そんならヘンリー坊ちゃんが明治11(1878)年に書いたり、同じ年にベルリンの学会で発表した材料はどこからきたのよ。モースさんより前に掘っていたか、それとは違うが同じような場所に別な貝塚があったとしか、考えれねえじゃないか。

じつはナウマンさんは横浜の鶴見にも同じような貝塚を見つけていたんだよ。だからここからの材料を集めて研究しなすったんだが、鶴見の貝塚をナウマンさんが見つけていたってえことは、大森もみつけていたってえことになるわな。あっちの方が見つけやすいんだからよ。
こう考えると、なんでモースさんの発掘が3ヶ月も遅れたのか、そんで一旦発掘を始めると、なんであわただしく地名を間違えて論文をかいたのか、そんで現場の囲い込みをいそいだのか、ぜんぶつじつまがあうじゃあねえか。

いや、ナウマンさんの話が長くなったが、これからヘンリー坊ちゃんの巻き返しの話をするよ。

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[758] 補足2:魔の長方形
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月2日 19時20分
「旧石器」の銀座江合川が岩出町を流れるあたりの情報がえられた。
ひとつは「馬場壇A遺跡I」(東北歴史資料館資料集16,1986)p2にこのあたりの5万分の1の地図が含まれていて、それに座散乱木、馬場壇の位置が記入されている。
もうひとつは藤村新一が使用していた地図で、これは地名が右から書かれており戦前の地図をもとにした5万分の1の地図だとわかる。
さらに「江合川流域の旧石器」(東北歴史資料館資料集14, 1985)には、表紙に座散乱木を東南の上空から撮影した高度200メートル位の位置からの航空写真が用いられている。またp101には岩出山町の裏山の「城山公園」(海抜100メートル位?)から撮影した江合川左岸に広がる低い丘陵地帯の遠景写真がある。

この3枚の地図からいろいろな情報がえられる。
まず絶対的時間では、藤村地図がもっとも古く、ついで馬場壇地図、一番新しいのが写真とわかる。(写真にあって地図にない道路が見られる)
こうして並べてみると、三太郎山、宮城平、座散乱木、馬場壇という有名な遺跡は左岸の丘陵地帯にならんでいて、南北にわずか8キロの長さの直線上に位置していることがわかる。江合川にそってJR東日本の陸羽東線が走っているが、上岩出山駅、岩出山駅、西岩出山駅という3つ駅の間にすべての遺跡がある。

それにしても妙な地形である。江合川の左岸はマクロ的には平らでまるで氷河が全体を削り取ったようにみえる。残った平地が浸食を受けて、無数の小さな谷や沢を形成し、小さな丘や海抜200メートル足らずの、しばしば頂上が平らな山を形成したように見える。

江合川はあきらかに過去何度も大きな氾濫を繰り返している。その氾濫原が現在、岩出山町の市街地がある場所であり、岩出山町の水田のある場所である。氾濫があった証拠に、地図の上の堤防は、新しいものと古いうち捨てられたものが見られる。また航空写真には冠水した水田が写っている。

また岩出山駅の東にある工場を中心として、半径5キロの円内にすべての旧石器遺跡がおさまっている。(地図には65箇所の遺跡がプロットされているが、例外は芦の口にある2カ所のみ)

遠藤智一はこの岩出山中学校の美術教諭であった。学校はこの町に5つある。岩出山、上岩出山、西岩出山、池月と駅の近くにあるのが、小学校であろう。それとは別に向山にひとつあり、これが中学校であろう。
何と中学校は座散乱木からも宮城平からも1キロの所にある。歩いて15分のところだ。

江合川は岩出町を北西から南東に向かってほぼ直線上に流れている。この川の周囲に堆積原ができていて園は幅およそ2キロである。また川の流域にそっては25キロにも達する。要するに岩出山町はこの堆積原の上に発達した集落である。左岸は上述の写真のように丘陵地帯だが、右岸は深い谷が発達していて、道がよくない。遺跡は左岸の丘陵地帯に集中している。ここは道が多く、急峻でもない。

さて自転車でこの堆積原は簡単に移動できる。堆積原のなかを一本広い道路が走っているし、堆積原の山際にも南北に走る道路がある。いずれも平坦で急坂はない。自転車は歩行の4ないし5倍の速度が出るから、中心点から遺跡の端までは10分程度で達することができる。

藤村の古い地図と馬場壇地図を比較すると、「山谷」という小字の土地に工場が作られ、敷地の端に遺跡がプロットされているのがわかる。また工場から尾根を突っ切って川へ抜ける道路が建設されたのがわかる。これが宮城平(岡村が工場と交渉した遺跡)だとわかる。

宮城平、座散乱木、馬場壇と「ねつ造事件」で重要な舞台となった「遺跡」は、すべて東西2キロ、南北4キロの長方形のなかにおさまる。
この長方形の中に遠藤智一の中学校があり、川の向こう岸に藤村新一の工場がある。
鎌田俊昭はこの「魔の長方形」のなかで最初の旧石器を発掘した。
岡村道雄もこのなかで最初の旧石器を発掘した。
どうしてこのような「異常性」に誰もこれまで気づかなかったのだろうか?

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[759] Re: 補足2:魔の長方形
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月2日 19時57分
> それにしても妙な地形である。江合川の左岸はマクロ的には平らでまるで氷河が全体を削り取ったようにみえる。残った平地が浸食を受けて、無数の小さな谷や沢を形成し、小さな丘や海抜200メートル足らずの、しばしば頂上が平らな山を形成したように見える。

 これは氷河ではなく約5万年前に「柳沢火砕流」が一挙に押し流し、堆積して、まるで氷河の作用した地形のようになったのだそうです。
この「火砕流台地」が浸食をうけて、上述のような地形になったそうです。(「江合川流域の旧石器」p7)

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[983] Re: 補足2:魔の長方形
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月9日 19時04分
> 遠藤智一はこの岩出山中学校の美術教諭であった。学校はこの町に5つある。岩出山、上岩出山、西岩出山、池月と駅の近くにあるのが、小学校であろう。それとは別に向山にひとつあり、これが中学校であろう。
> 何と中学校は座散乱木からも宮城平からも1キロの所にある。歩いて15分のところだ。
http://www.mapfan.com/index.cgi?HFILE=JapanMap/miyagi.shtml&MapSize=0
で、現在の岩出山町の地図をみることができます。
それによると上記の文章で「岩出山中学」と考えたところは「岩出山小」でした。中学は市街の西の丘の上にあります。
また現在では城山に岩出山高校ができています。
従って遠藤がこの長方形の中に勤務していたというのは間違いですので、取り消します。

> 藤村の古い地図と馬場壇地図を比較すると、「山谷」という小字の土地に工場が作られ、敷地の端に遺跡がプロットされているのがわかる。また工場から尾根を突っ切って川へ抜ける道路が建設されたのがわかる。これが宮城平(岡村が工場と交渉した遺跡)だとわかる。
この工場は現在の地図だと「日東電工」の工場だとわかります。これはたしか松下系の液晶用のフイルムなどをつくる会社です。
岩出山小学校の北東1キロのところにある大きな工場です。

> この長方形の中に遠藤智一の中学校があり、川の向こう岸に藤村新一の工場がある。
藤村の工場はもっと南の大和町なので、この解釈も間違いです。取り消します。

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[985] Re: 1/25000地図の閲覧
投稿者名: 謹慎中の身
投稿日時: 2001年2月9日 20時35分
下記URLで、国土地理院の全国の1/25000地形図の閲覧が可能です。
ご参考まで。

http://mapbrowse.gsi.go.jp/japan.html

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[986] Re: (補足):座散乱木の位置
投稿者名: 謹慎の身
投稿日時: 2001年2月9日 20時51分
ちなみに座散乱木は1/20万仙台の図画中の荒谷(北西)にあります。

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[987] Re: 1/25000地図の閲覧
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月9日 21時34分
やあ、これは便利ですね。「仙台」を選び「岩出山」の北西「荒谷」を選んで、画面をプリントしたらA4サイズ6枚の地図ができました。
それをテープでつなぎ合わせたら現地の状況がよくわかる。
藤村が1970年代に使っていた地図と比べると、道路の状況がすっかり変わっている。

座散乱木遺跡の位置が、プリントした地図には載っていますね。
座散乱木大橋があたらしくかかり、北羽前街道(47号線)から座散乱木大橋を渡り、座散乱木丘陵をぶち抜いて、日東電工につながるはずの2車線道路がこの遺跡の為に工事中止に追い込まれた状況がよく見て取れます。

どうもありがとうございました。
どこかにゼンリンの宅配地図がないかな。
座散乱木近辺の住民の家の位置と名字がわかれば、こんな田舎のことだから、本家と分家、親類関係まで割り出せますよ。
しかしここには藤村姓はたぶんないのじゃないかな。

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[988] 縄文海進
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月9日 22時11分
驚きました。江合川の河原の海抜が40メートルで、岩出山市街地の海抜は45メートルしかない。
座散乱木の頂上は66メートルです。

これは過去何回も大水害に見舞われた町だと思います。

それにしても縄文海進の際には、このへんは海底になったのではなかろうか?
宮城県における貝塚ラインはどのようになっているのか、どなたか教えて下さい。

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[1006] Re: 『日本第四紀地図』より
投稿者名: 謹慎の身
投稿日時: 2001年2月10日 09時57分
うろ覚えでの投稿、ご寛恕ください。次の資料により補正します。

縄文海進
『日本第四紀地図 解説』(日本第四紀学会編、1987)によると、縄文海進高頂期における八郎潟・仙台・津軽・北上などの諸平野の汀線高度は一般に3〜4メートル。ただし白神山地海岸では10メートルに達する(p.22)。

下末吉期の汀線高度(単位はメートル)
三陸地方35、仙台湾20、相模湾160、大阪湾30、室戸岬190、足摺岬60(p.24)などとなっています。

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[994] Re: 縄文海進
投稿者名: 謹慎の身
投稿日時: 2001年2月9日 22時24分
縄文海進はせいぜい20-25メートルくらいでは(時期にもよりますが)。
専門の時代が違うので間違えているかもしれませんが、おそらくそんなに違わないと思いますよ。
ただ、時代は縄文海進を超えてますからね。第4紀研究の人、至急情報求む!

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[998] Re: 縄文海進
投稿者名: QR
投稿日時: 2001年2月10日 00時13分
> 縄文海進はせいぜい20-25メートルくらいでは(時期にもよりますが)。
> 専門の時代が違うので間違えているかもしれませんが、おそらくそんなに違わないと思いますよ。
> ただ、時代は縄文海進を超えてますからね。第4紀研究の人、至急情報求む!

松本(1984)地理評,57によれば、縄文海進の最高頂期は約4500年前で0mを少し上回る程度とされています。
仙台平野の完新世の海面変動研究は他にもいくつか例がありますが、20mも高かったという研究例は存じません。

日本は地殻変動にかなり支配されているので過去の海面の指標高度も多かれ少なかれ上下しています。
したがって場所によっては、最高頂の時期やその時の海面高度にはバラツキがあります。

座散乱木が海底に没していたとは考えにくい。

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[999] Re: 縄文海進
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月10日 00時33分
普通日本の本には、縄文海進はB.C.6400年頃はじまり、その頃瀬戸内海が形成されたと書いてありますよね。
でもその証拠は?
瀬戸内海ができるほどの地球環境の変化が日本だけで起こったと思いますか?
するとこれは地中海が形成されたときと同時であるに違いない。
するとそれはB.C.1万年以上前でないと理屈があわないのですよ。

それに何で瀬戸内海の海底からナウマン象の化石が発見されるの?
縄文海進がはじまったときにナウマン象が生きていたからでしょう?
ナウマン象は縄文時代にも生きていたの?

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[1007] ナウマン象について
投稿者名: カメさん
投稿日時: 2001年2月10日 15時52分
>それに何で瀬戸内海の海底からナウマン象の化石が発見されるの?
縄文海進がはじまったときにナウマン象が生きていたからでしょう?
ナウマン象は縄文時代にも生きていたの?

 ナウマン象について私が理解していることは以下の通りです.
主な出典は
亀井節夫(編著)、1991.「日本の長鼻類化石」築地書館.
「日本の地質3.関東地方(1986年初版)」、「日本の地質6.近畿地方(1987年初版)」共立出版.

学名:Palaeoloxodon naumanni (Makiyama, 1924)

地質分布年代:更新統中期後半〜末期(約30万年前〜1万7000ないし1万6000年前).

地理的分布:琉球列島以北の日本全域.中国東北部に産出する一部の長鼻類をナウマン象とみなす見解もある.

体格:最大で体高2.7メートル(現在のインド象ほどの大きさ).気候の寒冷化に伴って大型化する傾向が認められる.

随伴する動物:ヤベオオツノシカ、ヒョウ、トラ、ヘラジカ、ステップバイソン、オーロックス(家畜牛の祖先)などが代表的.本州ではツキノワグマとヒグマが共存する時期を含んでいる.これらの動物相は温帯の森林棲であることが特徴的である.また大陸のものと比較すると固有種の割合が高い.
 なお、長野県の野尻湖層では約4万8000年前から2万5000年前まで人間と共存した形跡が認められている.

解説:ナウマン象は、それまで日本列島に分布していたステゴドン象と入れ替わるように大陸から渡来した動物群の代表的なものと言えます.ステゴドンは共産する動物相(例えば大型のワニ類)を見ても熱帯性の要素が強い動物だったようです.ナウマン象は更新統の気候変化(寒冷化)に伴って日本列島に分布を拡大した動物群であったと考えられます.ナウマン象を主体とする動物群では固有種の割合が高いとされているので、日本に分布を拡大した後に、日本列島は大陸から海洋などの障壁により隔離されていた可能性が十分に考えられます.

 ここで問題になるのは、日本列島に人類が棲息するようになったのは果たしていつまで遡ることができるのかということです.一連の疑惑石器を考慮外におくと、日本列島で5万年以前に人類が棲息していたという確実な証拠はないように思われます.その要因として、それまでの人類は東アジアでは日本列島近傍まで分布を拡大していなかったか、あるいは海洋などの物理的障壁を超えて分布を拡大する技術を持たなかった可能性が考えられます.
 ちなみにオーストラリアで確認される最古の人類は約5万年前〜4万年前のものだそうで、当時になって人類は海洋を横断する技術を獲得したことが推察されます.
 ナウマン象と共産する多くの大型動物(オオツノシカなど)は、2万年前から1万年前にかけて比較的短期間に絶滅したと考えられています.また現在はまだほとんど未公表ですが、琉球列島でも島嶼化した大型動物がこの時期に、恐らく人間の渡来に伴って、急速に絶滅したという資料が確認されつつあります.

 私には、日本列島に人類が渡来したのは、比較的最近(5万年以前にはそれほど遡らない)のことであり、しかも何らかの手段で海峡を渡ってきたのではないかと思えるのです.そして渡来した人類は、日本列島固有の大型動物を地質学的にはごく短期間で絶滅させた.その後に、大形動物の狩猟に頼らない、縄文文化などが始まったのではないかと.
 今後の旧石器研究はこうした地質学的、古生物学的な背景も視野に入れて研究を進めていただきたいと切望いたします.

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[1000] Re: 縄文海進
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月10日 00時49分
縄文海進の極機には関東平野の海面は、茨城県藤岡町、群馬県坂倉町、茨城県古河市に達したと貝塚分布からわかります。
この時期はB.C.3700年とされています。
現在のこれらの地域の海抜はどのくらいでしょうか?

縄文海進の海面の高さには諸説があって、プラス60メートルから150メートル位まである。
その程度のことが確定できない学問では困ります。

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[1005] 晩氷期海進と後氷期海進
投稿者名: アームチェア (ホームページ)
投稿日時: 2001年2月10日 04時10分
最終氷期の最寒期は、気候変動が激しいので特定は難しいようですが、24,000〜15,000年前を挟む時期だったでしょう。海面低下の最高記録はマイナス120〜140mとされています(短時間だったようですが)。その後急速な温暖化が起こり、晩氷期海進と呼ばれる急速な海進が起こります。これで多分、マイナス20mくらい迄沖積層が堆積したはずです。12,000年くらい前になるとヤンガードリアス期と呼ばれる急激な寒冷化が起こり、これによってせっかく堆積した沖積層に侵食と下刻作用が起こり、マイナス数十m以上の海面低下に至ります。寒の戻りは比較的短期間でおさまり、今度は後氷期海進(完新世海進、縄文海進)が進行します。日本列島では縄文前期にほぼ海水準は安定し、ピークに達したようですが、最高でもプラス1m程度だったと思います(0だったかもしれない)。現在の標高がそれよりプラスだったりマイナスだったりするのは、その後の時間経過の間にテクトニックな理由で地盤が上昇したり、沈下しているためです(日本列島は変動の激しいところですから)。一番極端な例は千葉県の山中にある珊瑚でしょう(縄文海進の時の形成です)。大磯ではプラス25mの海成段丘があります。関東平野でも変動は様々です。なおピークの後の小海退(あるいは小海進)には、氷河の重さが海洋に移ったことによるアイソスタシーの関係もあるようです。
数字等は全てうろ覚えですし、文献やWebで確認してもいませんが、全体のストーリーはこのようなものです。
前の間氷期の下末吉海進(12〜13万年前)の時でも事情は似たようなもので、下末吉海進の汀線の推定ラインが現在の標高で30mだったり100mだったり、色々です。

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[1008] Re: 晩氷期海進と後氷期海進
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月10日 19時46分
アームチェアーさま:
広島市の市街地のど真ん中に比治山という海抜70mほどの山があり、その南山麓に「比治山貝塚」があります。高校時代にそこによく散歩に行っていました。
そこは現在は海抜20メートル位あります。
その記憶があるので、縄文海進は少なくとも20メートルはあると思っていました。
しかしそれ以後の土地の隆起があるから、現在貝塚のある海抜まで当時の水面が上昇した、ということにはなりませんね。これはよくわかりました。

「スーパーニッポニカ」には次のような説明がありました。
縄文海進:
約6000年前の縄文前期ころには世界的な海進のピークが認められている。この海進をフランドリア海進といい、日本では縄文海進とよんでいる。(C)小学館
約1万〜6000年前の海進。文化編年上の縄文早期〜前期の海進であるところから、こうよばれる。狭義の有楽町海進と同義で、広義のそれの後半にあたる。最終氷期の最大海退期は約1万8000〜1万6000年前であるが、当時の海面は現在の海抜マイナス100メートル以下であったとされている。その後、海面は急激に上昇し1万2000年前にはマイナス10メートル以上に達した。この海進が7号地海進であり、広義の有楽町海進の前半にあたる。その後、一時低下したが、約1万年前にはふたたび急激な海面上昇が生じ、約6000年前には現海面上2〜3メートルに達した。これが縄文海進である。この海進は、7700年前の小海退によってさらに2分されている。(C)小学館

「フランドリア海進」はニッポニカに載っていません。「アメリカーナ」を調べましたがこれにも載っていませんね。どなたかご存じの方は教えて下さい。

カメさん、ナウマン象の情報ありがとうございました。
ナウマン象はおよそ2万年前に絶滅したので、縄文海進の時代にいるはずがありませんね。
現在瀬戸内海の海底から引き上げられるナウマン象の化石は、瀬戸内海が形成される6400年前より古い時代に、そこに湖水が点在していた時代に死んだものでしょうね。

「地中海」については、以下のような記載がありましたが、現在の地中海がいつ形成されたのかは書いてありません。
これはプラトンの伝える「アトランティス」伝説などともおそらく関係があり、それほど古い時代のことではないように思うのですが。
どなたかご教示下さい。

地中海:
地質学的にみると、黒海を含む現在の地中海は、石炭紀から第三紀初めまで、現在の旧大陸のかなりの部分をも含んで存在していた広大な海域の名残(なごり)である。第三紀造山運動によってこの海域が狭められたのであるから、広義の地中海は、主として第三紀造山運動によって形づくられた山系によって縁どられ、くぎられていることになる。それが不安定な地塊であることは、地中海地域に地震、火山活動が多いことが物語っている。西アジア沿岸およびアフリカ沿岸に比して複雑なヨーロッパ沿岸の地形は、第三紀以降のより複雑な地殻運動を反映している。(「スーパー・ニッポニカ」)

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[1009] Re: 晩氷期海進と後氷期海進
投稿者名: カメさん
投稿日時: 2001年2月10日 20時56分
>「地中海」については、以下のような記載がありましたが、現在の地中海がいつ形成されたのかは書いてありません。これはプラトンの伝える「アトランティス」伝説などともおそらく関係があり、それほど古い時代のことではないように思うのですが。どなたかご教示下さい。

地中海:
 地質学的にみると、黒海を含む現在の地中海は、石炭紀から第三紀初めまで、現在の旧大陸のかなりの部分をも含んで存在していた広大な海域の名残(なごり)である。第三紀造山運動によってこの海域が狭められたのであるから、広義の地中海は、主として第三紀造山運動によって形づくられた山系によって縁どられ、くぎられていることになる。それが不安定な地塊であることは、地中海地域に地震、火山活動が多いことが物語っている。西アジア沿岸およびアフリカ沿岸に比して複雑なヨーロッパ沿岸の地形は、第三紀以降のより複雑な地殻運動を反映している。(「スーパー・ニッポニカ」)

 地中海の形成に関しては
Smith, A.G., Smith, D.G. and Funnell, B.M. 1994. Atlas of Mesozoic and Cenozoic Coastlines. Cambridge University Press, 99 pp.

が非常に理解しやすい文献です.これには2億4500万年前(中生代三畳紀)から現在まで31枚の復元古地理図が載っており、地中海がどのような変遷を辿ったのか一目で判ります.地中海はアフリカ・プレートがヨーロッパに接近することで形成されたのですが、最終的にトルコからシリアなどの中近東が陸化してジブラルタル海峡以外の出口がなくなるという現在の形になったのは、約1000万年前(新生代第三紀中新統)ということになります.

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[1010] Re: 晩氷期海進と後氷期海進
投稿者名: QR
投稿日時: 2001年2月10日 22時01分
> 「フランドリア海進」はニッポニカに載っていません。「アメリカーナ」を調べましたがこれにも載っていませんね。どなたかご存じの方は教えて下さい。

井関弘太郎1982「沖積平野」東京大学出版会によると、フランドリア海進あるいはフランドル海進は、フランス国境に近いベルギーのフランドル地方の海岸で認知された海進現象からそう呼ばれているらしいです。これが日本でいう縄文海進に相当するのですが、ここには出典がないので今すぐにこの海進の詳しい時期はわかりません。後日調べます。

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[727] 補足1
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月1日 21時35分
展示の「解説書」(1981."9.6"実際は10.9刊)の表紙には、「原人が間接打法で、骨のハンマーとたがねを使って石器をつくる。後には茅葺きの小屋」という絵が掲載されている。
この表紙は一番最後に原稿が印刷にいれられたことが「業務報告」の記載からうかがわれる。
10月3日に藤村新一が13層上面で石器を発見。これ以後この層からぞくぞく出てきた。
出版が10月9日だから普通に考えたら、このニュースを聞いて、考えたり、資料を集めて絵を描いたら表紙に間に合うはずがないよ。
「出ることを予期していた」、「石器を詳しく調べなくても、そうだということはわかっていた」と言えないかな?

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[729] Re: その表紙の絵が見たい
投稿者名: うささぎ
投稿日時: 2001年2月1日 21時54分
難波先生

>「原人が間接打法で、骨のハンマーとたがねを使って石器をつくる。後には茅葺きの小屋」
とありますが、この中の「後に」というのは「その背景として(その背後には)」と言う意味に解してよろしいですね。

>10月3日に藤村新一が13層上面で石器を発見。これ以後この層からぞくぞく出てき >た。出版が10月9日だから普通に考えたら、このニュースを聞いて、考えたり、資料>を集めて絵を描いたら表紙に間に合うはずがないよ。

さすがにこれは純文科系の私も「あり得ないこと」だと自信をもって言えます。

石器文化談話会の現会長の遠藤智一さんが美術の先生で、創立メンバーの一人でいらしたことを思うと、この表紙の絵も遠藤氏が描いたと考えるのが自然なのですが、この件に関する記述は見当たりませんか。ご教示いただければ幸いです。

それと、できればその絵を是非見てみたい。お忙しい最中とは思いますが、アップしていただくのは無理でしょうか。願わくば遠藤氏の文と絵からなる元祖「馬場壇絵物語」の挿絵の方も・・・・。

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[732] Re: その表紙の絵が見たい
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月1日 22時42分
草ぶきの小屋は背景です。
絵を描いた人の名前はありません。
遠藤の絵との比較はまだです。
文章はOCRで読み込めばアップできますが、この掲示板は絵もアップできるのでしょうか?管理人さん。
ともかく「美術史家」にも見て欲しいので明日郵送します。

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[735] Re: 絵
投稿者名: 管理人 (ホームページ)
投稿日時: 2001年2月2日 00時14分
> 文章はOCRで読み込めばアップできますが、この掲示板は絵もアップできるのでしょうか?管理人さん。
> ともかく「美術史家」にも見て欲しいので明日郵送します。

画像は重たくなるので(結構容量を食っているし、またこれからも食いそうなので)、今のところ添付できない設定にしています。また、ネット上への掲載の場合、やはり著者に確認を取るのが望ましいでしょうから(著作権法第32条などを見る限り、許される気もするのですが、ネット上での場合はどうなるか私には不明です)、申し訳ありませんが・・・。

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[760] Re: 補足1
投稿者名: 岡村手下
投稿日時: 2001年2月2日 20時30分
 難波博士、表紙の絵を座散乱木の状況をもとに描いたと判断した根拠はなんですか。
もし、博士の言うとおり、原人を描いたものとしたら、座散乱木ではないのでは?「旧石器時
代の東北」では座散乱木は旧人が残したと判断しています。旧石器時代の一般的な場面を
描いたものではないでしょうか。
 

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[762] Re: 補足1
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月2日 21時07分
私が「原人」と判断した理由は「馬場壇A遺跡I」報告書(1986)に遠藤智一が載せている3枚の絵と、「旧石器時代の東北」(1981)の表紙絵とは、同じ文化をもち、同じような姿に描かれているからです。
前者ははっきり「前期旧石器時代人」と書いてあります。すると後者もおなじクラスの人類ということになります。

この点は「美術評論家」により詳しい鑑定をお願いしてありますので、週明けにでもここに回答がアップされるでしょう。
万一私の解釈が間違っていれば、発言を撤回し、きちん謝罪いたします。

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[789] Re: 表紙の絵(1981)と馬場壇絵物語(1986)
投稿者名: うささぎ
投稿日時: 2001年2月4日 19時07分
難波先生 資料を早速お送りくださり有難うございました。

(A)展覧会「旧石器時代の東北」(東北歴史資料館、刊行1981年10月)のカタログの表紙の絵、と (B)『馬場壇A遺跡 I ―前期旧石器時代の研究―』(東北歴史資料館/石器文化談話会、刊行1986年3月)の付録2「馬場壇A遺跡第20層上面でのくらし」(176〜178頁、文と絵:遠藤智一)の両者を [1]様式(絵の造形的特徴)と[2]図像(アイコノグラフィー:「何が」描かれているか)の両面からとりあえず分析してみました。

[1]様式に関しては(A)が2人の人物を大きくアップで描いているのに対して(B)に含まれる3点がすべてロングショットで捉えられた大きな情景で、人物を始め個々のモティーフが小さいので細部の比較がコピーでは困難ですが、一言で要約すれば「共通点が多いので同一の人物の手になる可能性が高い」と判定してよさそうです。とくに人物の膝関節の強調の仕方に独特の癖があり―ちなみにこれは少年マンガでも少女マンガにもまず見られぬ特徴―、人物の毛髪を黒を主体としながらベタにせず白の線描でハイライトを施す手法にも共通性が見られます。ですから作者名の明記されていない「旧石器時代の東北」展の表紙絵も馬場壇物語と同じく遠藤智一氏によるものである可能性が非常に高いと思われます。

[2]図像について 実は難波先生の提示された疑惑に関してはこちらの方が遥かに重要なのですが残念ながら両者を比較しますと、共通点もあるもののむしろ相違点の多さの方が目に付きます。たとえば

1 (A)の背景には針葉樹林が見えますが、(B)の馬場壇は草原であって樹木は多くなく、第2図右上に大きく描かれている樹木は明らかに広葉樹です(本文でもトチの木が言及されています)。

2 (A)に描かれた住居は明らかに干草もしくは茅葺きですが、(B)の第2図に登場する住居は毛皮と茅・干草の双方で葺かれているように見えますし、付随の文章にも「毛皮や木の葉・草で葺いた簡単な屋根の小屋」と記されています。ですから(B)の馬場壇の方が(A)よりも一段と古い生活様式を再現しようとしているものと考えて良さそうです。

3 (A)と(B)(第3図)における石器の製作方法には明らかな違いが見られます。これが最も肝腎な点ですが、この件に関してはすでに旧石器の専門家であえるソフィー氏が詳しく検討されています。以下は投稿[771]よりの引用。
【前者は、右手に骨製のハンマー、左手にパンチをもって間接打法で剥片または石刃を生産している様子が描かれています。】
【後者は(中略)、3枚目の絵には石器製作をしているらしい人物が描かれています。手前左側の人物は、右手に棒状のものを握り、右膝にかけた毛皮の上においた石器を調整しているようです。手前右側に石のハンマーで石を直接たたいている人物が描かれています。その後方に、右手に石のハンマーをもち左手にもった骨をたたこうとしている人物がいますが、これは長骨を割ろうとしているのだと思います。「20層上面でのくらし」を示したものですから、前期旧石器時代の生活を描写したものいうことになります。】

専門家を前にして言うのも何ですが、素人の私にもまさにそのように見えます。ですから(A)の表紙絵(1981年)が「前期旧石器時代」の生活の再現を目指したものと断定できぬばかりか、むしろ後期旧石器時代における進んだ石器製作技法を念頭に置いているのは間違いないのではないでしょうか。(A)と(B)が同一の文化の段階を再現しているとは言えず、(B)において(A)より古い生活の再現が目指されていることは確かだと思います。

そもそもこの種の図像の分析に関しては知識に乏しい美術史家よりも考古学者の方が適しているのですが、(A)「旧石器時代の東北」展の表紙の絵が、このパンフレットの刊行とまさに時を同じくして発掘調査が行われつつあった座散乱木遺跡を描いたものだ、という推論は以上を鑑みるに成立しません。これはすでに「岡村手下」さんの投稿[Re:補足1 No.760]で問題にされていましたが、この絵を座散乱木と同定する根拠は全く見当たらないのです。

本来は直接の関連のないはずの「旧石器時代の東北」展と座散乱木遺跡の発掘成果が時を一にしたことに対する難波先生の疑問はごもっともだと思いますが、この表紙の絵を根拠に、既定の「プロット」の存在を推測するのにははっきり言って無理がある、というのが当面の私の結論です。ご期待に添えず申し訳ありません。

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[1080] 先生のお言葉は…
投稿者名: bambi
投稿日時: 2001年2月15日 15時29分
僭越ですが、お忘れになられていないか、少し心配なので…

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[1087] Re: 先生のお言葉は…
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月15日 18時37分
> 僭越ですが、お忘れになられていないか、少し心配なので…

すみません。忘れていました。きちんと反論すると美術評論家の立場がないし、

「解説書」(1981."9.6"実際は10.9刊)の表紙には、「原人が間接打法で、骨のハンマーとたがねを使って石器をつくる。後には茅葺きの小屋」という絵
が掲載されている。 10月3日に藤村新一が13層上面で石器を発見。これ以後この層からぞくぞく出てきた。
出版が10月9日だから普通に考えたら、このニュースを聞いて、考えたり、資料を集めて絵を描いたら表紙に間に合うはずがないよ。
「出ることを予期していた」、「石器を詳しく調べなくても、そうだということはわかっていた」と言えないかな?

これが私の提起した問題。うさぎさんは、

右手に石のハンマーをもち左手にもった
骨をたたこうとしている人物がいますが、これは長骨を割ろうとしているのだと思います。

と解釈し、

A(表紙絵)とB(馬場壇挿絵)
が同一の文化の段階を再現しているとは言えず、(B)において(A)より古い生活の再現が目指されていることは確かだ

と結論しました。

私は二つの絵に描かれている「技術」だけを問題にします。
まず小屋をつくる木の組み方はAとBとも同じです。これは3万年くらい前にウクライナに初めて出現した技術で、棒を傘の骨のように組み合わせ、てっぺんをひもで縛り、屋根の枠をつくるやり方で、その上に毛皮を載せるか草を載せるかは、周囲にどういう材料があるかの違いにすぎない。
次に「長骨を割ろうとしている」という解釈は無理です。長骨は縦に叩いても割れない。力学的に長骨はこの方向にはきわめて強靱だからです。
私が送ったコピーが悪かったのかも知れないが、長骨の下には石があり、周囲に破片が散乱している。
従ってこれは間接打法により石器を作っている場面と解釈されます。
Aにおいて「骨のハンマーとたがね」と表現した「たがね」というのは骨か角で作ってあります。

従って二つの絵は、基本的に同じ文化を描いたものであり、とうてい片方が原人で片方が旧人などとは区別できない。
よってBが原人だと主張されている以上、Aも原人を描いたものだと結論せざるをえない。
こういうことになります。

ただ、「出ることを予期していた」という解釈の他にもうひとつの解釈があり、その方がより妥当性があるかな、と今では思っています。
つまりこの二つの絵の書き手は、「原人と旧人の間には、目もくらむような深淵がある」ということをまったく理解していなかった。
つまり旧人を量的に遡らせれば原人の文化に到達する、という程度の粗雑な認識しかなかった。だから本質的には同じ絵を描いてしまったのだ、という解釈です。

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[1091] Re: 適任者を求む
投稿者名: うささぎ
投稿日時: 2001年2月15日 23時25分
難波先生、およびbambi様 有難うございました。

>(遠藤智一:文と絵「馬場壇A遺跡第20層上面でのくらし」(東北歴史資料館資料集16『馬場壇A遺跡 I』1986年3月の挿絵について)うさぎさんは、右手に石のハンマーをもち左手にもった骨をたたこうとしている人物がいますが、これは長骨を割ろうとしているのだと思います。と解釈し・・・

>「長骨を割ろうとしている」という解釈は無理です。長骨は縦に叩いても割れない。力学的に長骨はこの方向にはきわめて強靱だからです。私が送ったコピーが悪かったのかも知れないが、長骨の下には石があり、周囲に破片が散乱している。従ってこれは間接打法により石器を作っている場面と解釈されます。

お送りいただいたコピーはおそらくこの冊子の原寸大だと思うのですが、人物自体の描写が小さいので、問題の部分ははっきりとは見えません。「長骨の下に石がある」のは確かですが、それが石器の原材料である石材なのか、それとも骨を割るために用いている「作業台」なのかの判断は、石器や骨角器の製作技法に疎い一介の美術史家の手に余る難題です。ご記憶だと思いますが、「長骨を割ろうとしている」のだという解釈を最初に示されたのはソフィーさんですが、ソフィー先生は旧石器専攻であるだけでなく骨に関連した論文も何本かお書きになっているので、私としては信用して良さそうな発言と受け止めたわけです(それすら疑ってしまうとソフィー先生のレゾン・デートルは一体何なんだ、ということになてつぃまいますし)。

しかし難波先生がご指摘の通り「長骨は縦に叩いても割れない」のだとすれば話はまるで違ってきます。「周囲に破片が散乱している」と言えるほど破片の数は多くないように見えるのですが、それでも先生のおっしゃる通り「間接打法により石器を作っている場面」と解釈するべきであって、そうであるならば、1981年10月刊行の『旧石器時代の東北』展カタログの表紙絵との文化段階の差は認められなくなるでしょう。

>小屋をつくる木の組み方は同じです。これは3万年くらい前にウクライナに初めて出現した技術で、棒を傘の骨のように組み合わせ、てっぺんをひもで縛り、屋根の枠をつくるやり方で、その上に毛皮を載せるか草を載せるかは、周囲にどういう材料があるかの違いにすぎない。

このご主張の当否も私には判断できません。岡村道雄『縄文の生活誌』における13万年前の馬場壇での暮らしの想像再現において住居に毛皮が張ってあったと書かれていたために、毛皮張りの方が草葺きより古い手法なのかと単純に思い込んでいただけです。

>B(「馬場壇A遺跡第20層上面でのくらし」1986年3月)が原人だと主張されている以上、A(『旧石器時代の東北』展カタログの表紙絵、1981年10月)も原人を描いたものだと結論せざるをえない。こういうことになります。

うーん、「こういうことになるのか」どうか・・・。3万年前のヒトと13万年前のヒトとの間に根本的な「断絶」が想定されていない、ということだけは確かに言えるでしょうが。

とにかくいくら扱う対象が「絵」だと言っても図像学の問題は対象分野に詳しい人が分析しないとダメなことは確かです。逆説的に聞こえるかもしれませんが私はこの種の図像学において美術史家が貢献できるとすれば、それは「現実・事実からの逸脱」という美術作品に常に付きまとう傾向を念頭に置きつつ「どこが史料として信用できないか」を検証することに尽きると考えている者でして、この問題提起をし続けることが歴史家との協業において最も重要だと信じているのですが、ここまで対象が古くなるとどうにもならないのが実情です。

座散乱木における「画期的発見」と同時に刊行された『旧石器時代の東北』展カタログの表紙絵(1981年10月)における人々の生活様式の描写がどれほど「革新的」であったかは、それ以前の時代における「後期旧石器時代の暮らし」の想像再現図の数々と比較してみないことには何とも言えません。私としても「岩宿の発見」から「座散乱木」までの期間に描かれた想像図の「図像的伝統」について大いに知りたいところですが、それと同時に、「本当に石器技法に詳しい」方のご発言を切に望む次第です。

難波先生、どうせならもう一度だけ角張先生のご登場を促していただけないでしょうか?

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[1094] Re: 適任者を求む
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月16日 00時29分
角張さんよりも、実際にフランスで原人の石器を勉強してきた竹岡さんの方が適任でしょう。
イエスというかどうかわからないが、働きかけてみます。

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[1096] Re: 旧石器時代の暮らしの想像図の伝統
投稿者名: うささぎ
投稿日時: 2001年2月16日 01時03分
難波先生への前のレスはやや舌足らずだったと思うので、ちょっとだけ補足させて下さい。

【難波】従って二つの絵は、基本的に同じ文化を描いたものであり、とうてい片方が原人で片方が旧人などとは区別できない。よってBが原人だと主張されている以上、Aも原人を描いたものだと結論せざるをえない。

私が申したかったのは、逆に従来の後期旧石器時代の人々、すなわち「旧人」の暮らしについてのイメージが、ほとんどそのまま末期の「原人」にも適用されてしまっただけのことではないのか、ということです。そしてこの仮説の検証には、岩宿発見以後の30年間におけるあらゆる「旧石器時代の暮らし」の想像復元図の歴史を振り返り、それと1981年の展覧会カタログの表紙絵を綿密に比較し分析する作業が不可欠なのです。

それと、この表紙の絵を主たる根拠にして「構造的捏造」の存在を論証しようとするのは無理だ、と言ったことは間違っているとは思いません。その証明のためにはやはり他にも多くの有力な傍証が必要です。

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[1106] Re: 旧石器時代の暮らしの想像図の伝統
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月16日 12時26分

> それと、この表紙の絵を主たる根拠にして「構造的捏造」の存在を論証しようとするのは無理だ、と言ったことは間違っているとは思いません。

これはおっしゃるとおりです。私もそれを主たる根拠にしてはいないし、また現在では、端にこの絵は「無知の産物」だと解釈するのが妥当だろう、と思っています。

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[1117] Re: 適任者を求む
投稿者名: 難波紘二
投稿日時: 2001年2月16日 17時00分
すみません。竹岡さんはインターネットをやっていないみたいです。
鎌田も、梶原もこの掲示板を読んでいるのに、竹岡さんが読んでいないなんて。

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